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あの日(4)

 今では常識となっているが、救援物資は個人レベルで送らないこと。事前に受け入れ側にコンタクトを取り、受け入れ態勢が整ったら送ること。色んな物を一つの箱にごっちゃにして送らないこと。
 東日本大震災が発災した当時、そういった常識はまだ整っていなかった。被災地、特に東北の物資不足は深刻化していた。こういう物が不足しています、今すぐに欲しいです、助けて下さい。そんな訴えがテレビからも流れてきたし、ツイッターにも流れてきた。

 私は、しまむら的な店とドラッグストアへ行った。買い込んだのは女性用の下着(ブラジャーとパンツ)、タオル、生理用ナプキン、洗濯用洗剤、柔軟剤、台所用洗剤。そんな物だったように記憶している。不足していて困っていると聞いた物を買い込んだ。

 支援物資を買うのも結構気を遣うな、と思ったことを憶えている。
 例えばブラジャーとパンツは避難所暮らしで着替えも侭ならないだろう、身体を締め付けるものは苦しくなるだろう、敏感肌の人もいるだろうなどと考え、綿100%の、ノンワイヤーの物を選んだ。色も、年齢を選ばないように白。サイズも複数買った。
 洗濯洗剤や柔軟剤は無香料か、香りに個性が無いものを選んだ。匂いが苦手な人や、この香り嫌い…という人もいるだろう。
 タオルは、優しくて明るい色のものにした。
 今ではやってはいけないことだが、それらを一緒くたに段ボールに詰めて盛岡市の隣・滝沢村(当時)のホールのような所に送った。ボランティア団体がそこを救援物資受け入れの拠点にしていて、物資の仕分けをしているということだった。
 前回のエントリーで書いた通り、岩手には思い出と思い入れがあった。探したら、岩手に送り先が見つかった。そういう理由だった。

 支援物資は、二度送った。あとで、ボランティア団体からお礼状が届いた。
 色々な物がぐちゃぐちゃに入った段ボール箱が山程届いて、それを一つ一つ開けて物品を仕分けする作業は本当に骨が折れたと思う。ボランティアの人達には、頭が下がる。
 私が買ったブラジャーやタオルや洗剤は何処へ届いたのかなあと、そんなことをよく思った。役立ってくれていたらいいなあ、と、よく思った。

 あの時、被災地から離れた場所に居た多くの人が感じていたと思うのだが、何も出来ない自分、何もしていない自分という存在に無力感を感じていたし、自分は何をやっているんだという自責の念もあった。物資を送るという行為は、一種の罪滅ぼしや言い訳のようなものだった。
 被災地の為、被災した方々の為ではなかったのである、多分。自分自身のエゴでやっていたのである。多分。

 関東の方も余震や放射能の件が落ち着いたかと言えば全くそんなことは無く、怯えてばかりの毎日だった。
 私は毎晩メイクをしたまま、昼間着ている服のまま寝ていた。いつ大きな余震が来ても、そのまま逃げ出せるように。
 家族からはメイクを落としなさい、パジャマで寝なさいと毎日のように言われた。だが、怖かった。メイクをしていれば顔の皮膚を放射能から守れるのではないかと考えていた。前のエントリーでも書いた、出所不明の怪しい情報である。

 窮屈な服装のまま、ベッドに入る。窓辺に吊るしている、部屋干し用の洗濯ピンチの洗濯バサミがずっと揺れている。ゆらゆら、ゆらゆら、ずっと、ずーっとだ。要は、止まることなく余震が来ているのである。
 ゆらゆらしている洗濯バサミを見ているうちに、浅い眠りに落ちる。
 トイレに、可愛いウサギの絵が入った額が飾られていた。その額も、トイレに入り便座に座って眺めていると、やはり小さくずーっと揺れているのである。
 気が休まらないとはこのことだ。

 本震発生直後は「買い物をして帰りたい」と平然と言い放ち、11日の夜はブーブー大イビキをかいて眠り、放射能は茹でれば消えると言い放った母。その母と、私はしばらくの間一緒に寝ていた。自分の部屋に母に来てもらって、一緒の部屋で寝てもらっていた。
 よく考えてもみよう。もしうちの母が地震にひどく怯え、神経質に毎日イライラし、放射能にも過敏なくらい気を付けるような人だったらどうだっただろうか。私は、母を頼らなかったと思う。頼れなかったと思う。
 日頃はイライラすることも多いが、母が鈍感かつ楽天的な人で良かったなあと今となっては思う。母、ありがとう。鈍感ありがとう。楽天的、ありがとう。
 ここまで震災時の母の行動をケチョンケチョンに書いてきたことはこの伏線だった…ということにして頂きたい。

 そんなある夜のことだった。私の部屋に居た母の悲鳴が聞こえた。
 「誰かっ…誰か来てーっ!」
 何事だ!もしかして、また原発が爆発したのか!?私は青くなって自室に駆けつけた。
 母はテレビを見て笑い転げていた。涙まで流していた。
 NHKの画面には、奇妙奇天烈な髪型をした専門家が映っていた。文字で説明するのは難しいのだが、所謂「バーコード頭」を更に長く伸ばし、耳の前に垂らしてねじるという、斬新過ぎるヘアスタイルだった。
 確かにこれは衝撃だ…事件だ…何でこの人を、この髪型のまんま出しちゃったんだろう。打ち合わせしてる時間と余裕も無かったのかな。それとも、この人以外に来られる人が居なかったのかな…
 私はツイッターを開いた。NHK_PRのアカウントを確認した。
 『えー…髪型の件については、お答え出来ません…』
 爆笑した。当時のNHK_PRは今で言う「企業公式ゆるアカウント」の先駆けだった。現在の作家・浅生 鴨さんが中の人だった。

 こうして振り返ってみると、混乱はしていたものの徐々に日常を取り戻しつつあったんだなあと思う。勿論、東北や津波の被害を受けた太平洋沿岸の地域や、そちらに親戚縁者がいらっしゃる方達はそれどころではなかったと思う。私については、うちについては、である。

 タイトルに使った写真は、3月25日のものだった。「おうちカフェ」をして、気分転換を図っていたらしい。
 本当に、去年の自粛期間中とやっていることが同じである。

 徐々に、音楽も聴くようになっていた。
 この曲を聴くとあの震災のことを思い出すな、という曲を幾つか貼っておこうと思う。

 BUMP OF CHICKEN『友達の唄』


 サカナクション『ルーキー』

 ラジオをつけていても、普段は絶対にかからないアンパンマンの歌とか、上を向いて歩こうとか、そんなのが流れてくると逆に私は事態の異常さを感じてしまって嫌になってしまった。
 そんな時、発売が延期になったこの曲が普通に流れてきた。いつも通りの、いつもと変わらないサカナクションのオシャレで先進的なビートとサウンド。元気が出た。

 Michael Jackson『Heal The World』

 言葉が直接的に伝わらない分、この曲は過剰にメッセージが伝わって来なくて、自然に受け入れられた。気持ちが、楽になった。マイケルはやっぱり凄いなと思う。

 9mm Parabellum Bullet『カモメ』

 この曲は、発災からかなり時間が経ってから耳に届いた曲である。9mmの、当時の新譜のリードトラックだった。
 震災前に出来ていた曲だったが、歌詞が津波のことを歌っているようにしか聴こえなかった。
 シングルカットもされたが、ラジオで耳にすることはほぼ無かった。いつも出ていたMステにも、出なかった。

 春が、近づいてきていた。

 震災というと、私は9mmの『カモメ』を思い出す。毎年、3月11日は欠かさず『カモメ』を聴くようにしていたのだが、今年は聴くことが出来なかった。
 10年目の『カモメ』は、重過ぎた。重苦しかった。

 (続く)

photography,illustration,text,etc. Autism Spectrum Disorder(ASD)