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リベラルの傲慢さ? 「歴史」からはじかれた声はどこへいく

リサーチするって難しいな。
フィリピンに来てからずっと途方に暮れている。

フィリピンでフェルディナンド・マルコス元大統領の時代に「戒厳令」が発令されたのは、いま48歳の私が生まれる前の年のことだ。マルコスがフィリピンから追い出された「ピープルパワー革命(エドサ革命)」が起きたのは1986年、私は中学生で、部活のバレー部の先輩にねちねちいじめられていた頃か。

フィリピンのニュースはテレビでやっていたはずだが、覚えてない。見ていたとしても、何が起きているのかよくわからなかっただろう。

見たことがないことや、知らないことを知りたいとき、どんな資料を参考にしたらいいのか。世間でこれまで「これが正しい」と言われてきたものを信じれば、それでよいのか。それは誰の主観をもとにしたものだろう。

たとえば、マルコス支持者に「この本を読むといい」とすすめられたものが、別の人に言わせると「マルコス専属ライターによるPR本」だったりする。むむむ。何を信じればいいのか。

もう一つ思うこと。
書き残されてこなかった人たちの声は歴史の一部ではないのだろうか。

4月、ミンドロ島でのボンボンの集会に集まった人たち

フィリピンで最近こんな論考が発表され、とくに大統領選挙でボンボン・マルコス氏を支持した人たちから、注目されている。ブルネイ・ダルサラーム大学で教えるフィリピン人ロメル・クラミン氏が、リベラルの仲間に語りかけるように書いたものだ。

丁寧に翻訳できていないけれど、こういう意味かなと理解した。

ボンボン・マルコスには投票しなかったというクラミン氏は、「フェイクニュースやわいろだけでボンボンが選挙に勝ったと考えるのはもうやめよう」と訴えかけ、「それぞれの考えで人々がボンボンに投票したことを否定することは、『我々はもっとものを知っている』というファンタジーに基づいた、リベラルの傲慢さの証しだ」と記した。

また、すぐモラル(倫理・道徳)で政治を語ろうとするリベラルの姿勢を見直す時期にあるとし、マルコスの対抗馬だったレニ・ロブレド氏の敗因について、「公共サービスや経済成長、ドゥテルテが残したものの継続を求める人々の生々しいニーズをわからず、道徳や反マルコスの旗を掲げるばかりだった」と戦略不足を指摘していた。

インドネシアで、やはり「独裁者」といわれたスハルト時代へのノスタルジーを語る人たちに出会ったことが、クラミン氏が歴史をいまいちど考えるきっかけになったという。ロブレドを支持した集団の枠をこえ、人々の感情やニーズにもっと敏感になり、敬意をはらった、リベラルで進歩的な政治を実現しようよ、と呼びかけている。

そうこれ、と思った。

モールでマルコスとロブレドの支持者があわや対立しそうになったことも

私はマルコスの悪事を支持しているわけではないし、歴史が「書き換えられる」という言葉にはかなり怖いイメージを持っているけれど、私の理解の範囲で、この論考のいわんとすることはとてもうなずけた。

フィリピンでボンボン・マルコスを支持した人たちに話を聞いていると、必ずしもこれまで「教科書的」に本やメディアで言われてきたことが、みんなにとっての「ほんとうのこと」ではなかった、とわかる。たとえば「マルコス時代は安全で幸せだった」「橋や学校ができてとても便利になった」と話す人がいる。

マルコスが国外に追放され、その悪事が明らかになっていくなかで、「自分たちは好きな大統領だった」「評価していた」という気持ちを言い出せずにいた人たちがたくさんいたのだと思う。

そうした声は、いわゆる「フィリピンの歴史」からはじかれてきたが、それもフィリピンに確かにあったものとして、歴史に含まれるべきなのではないだろうか。そんな冷静な「歴史のふりかえり」が、フィリピンの人たちの中であってもいいのではないだろうか。

ところが、どうもそうした冷静な対話がフィリピンではできないようなのだ。

それを難しくしている一つは、マルコス時代の「いいこと」に過剰にフォーカスした動画などをばらまくひきょうな手法があることだ。と同時に、マルコスを支持しない人たちの、対岸の人たちと交じり合おうとしない、かたくなさも、正直にいうと感じる。

フィリピンの大学にいると、「マルコスは悪」であって、それ以外を受け入れる余地はないという空気を感じる。当時の出来事を忘れてはいけないというのはもっとも、その通りなのだが、大学はさまざまな意見をたたかわせる柔軟な議論の場となったほうがいいのではないかしら。

著名なジャーナリストに取材をした時、マルコス支持の背景にあるのはフェイクニュースだ、それ以外に何が?というような語り口を見て、ちょっとだけがっかりしたのを思い出す。マルコスへの爆発的な支持は、「フェイクニュースにだまされた学歴のない人」が多かったからではなく(だまされた面もいっぱいあったとしても)、その見方そのものへの反発や、個々の経験など、さまざまな理由があったからではないか。

大きな組織や、著名な人の言う内容にのっかるのはとても楽なんだけど、なにか引っかかるというときは、何をしたらいいのか。

大学のねこよ、癒やしをありがとう

リサーチの難しさに戻ると。

リサーチというのは、もう一度私の目で見て聞いて、私の頭で考えるということだろうか。だとすれば調べる人の数と同じだけ、ちがった結果が最後には出るのかもしれない。調べる人が多いほど、さまざまな見方が公になる。それは悪いことではなさそうだ。

「夏休みの自由研究」のようなささやかな調べものだけれど、年をとった人や、若い人がどうマルコスを見てきたのか、もう少しフィリピンでお話を聞いてみたいな、と思う。


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