シャバ感のあるしごと
前職の上司で、当時は色々と自分のモヤモヤをぶつけてしまうこともあったけど、転職してからも定期的に話したくなり、たまに会っては近況を聞いてもらう人がいる
先週末に近所の飲み屋で、お互い仕事に「シャバ感が出てきたね」と話していた。
私が前職でその人の下で働いてた頃は、世の中の課題を出来るだけシンプルに、形のあるものとして捉えて、明確なステップとして手に取れるものにする事が仕事で、デザインというのがその助けになると信じて邁進していた。
実際、それはかなり成功していて、充分に内外から評価されていたように思う。何かかがよくなる事に貢献できている実感があった。
でも、自分で定義した課題を自分で解決しているような、同じところをぐるぐる回るような気持ちを感じていた。
今思えば自分の至らなさや視野の狭さに原因があったのは明白なのだけど、これじゃいけないのではという自分の葛藤を上手く言葉にできなかった。
時が経ち、狭い居酒屋でビールを飲みながらその人に自分が最近向き合っている事を一つ一つ話している時に、自分が昔と比べてずいぶん脈略がなく捉えどころのない話し方をしている気がした。
でも、なんだか昔よりその人との会話が楽しい。自分の言葉に返ってくる言葉が、自分の心にしっかり入ってくる感覚があった。
なんだかまとまりがなくて申し訳ないなぁという気持ちになっている時にふと、その人が、「俺たちシャバ感が出てきたね」と言った
「シャバ感」とは「現実を目の当たりにして、それに向き合う感じ」というニュアンスだと私は解釈した
現実は複雑なものなのだから、結局のところ複雑なまま向き合うしかないくて、私たちができるのは、せいぜいそれをある一面から仮置きして、それに向き合い、また仮置きを繰り返すことぐらいなもんだ。
現実に何かの軸を定めて邁進する事も仕事だし、また現実を別の角度から捉えてみる事も仕事で、現実と自分の関係性を確かめたり変えたりしながら、世の中と相互に変わっていくという、そういえばデザインというものの根源でもあるよなと思う。
私は可視化というものが好きでデザイナーをやってきた面が強く、今も武器にしている。
可視化は力強い。現実を目に見えて操作可能なものにしてくれる。そういう気にさせてくれる
だけどそれだけではだめな気がする。複雑なものをシンプルにした分だけ現実から離れてしまう。シンプルにしながら複雑なものに向き合い続けるのだ。
「シャバ」と対峙して調和を粘り強く目指し続けるには、明確なルールのある営みと、ルールを生み出す営みの両方が必要だ。
現実は捉えどころがなくて日々変化している、それと対峙する自分なりのやり方を日々試行錯誤するのだ。
これはデザインの話でもあるし、仕事の話でもあるし、人生の話でもあるなと思う。
大袈裟な帰結になったけど本当にそう思う
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