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26時の静けさ 後編

私は鬱になる前、進級や友人、バイト、人間関係、お金のことなど毎日いろんな思考を持ちながら大学の講義を受けていた。落ちこぼれることを常に怖がり、いわゆる意識が高い学生になっていた。意識を高く保つには多くのエネルギーが必要である。自分を愛す余裕も無くなり、鬱状態になってしまった。進級できず、友人とも一方的に疎遠になり、学費を1年多くかけて大学に行く私の価値がわからなくなってしまった。人の顔色を窺うようになってしまった。家族も、他人にも。

「死は救済」

鬱になると誰もが行きつく終着点なのだろうか。

この思考にたどり着いたとき、私はひどく安心した。あぁ、ずっと私が求めていたのは救いで、この状況の救済は死なのかと考えると、不思議と心が軽くなった。いつがいいかとかどんな方法でとか、1か月ほど悶々と考えた。それを判断できるほど、私には気力がなかった。ある日、考えを煮詰めるうちに涙が出るようになった。まだこの世に未練が沢山あることに気が付いた。人間は元気と気力があって、この世への未練が無くならないと死ねないのだなと実感した。結果的に私は生存していて、今この記事を書いている。

今の私ならわかる。人生で何より大切なのは、自分を愛せる状況にあることだ。死は救済なんかではない。「死は救済」というのは鬱の時の通過点であり、そこで止まって、その思考を見つめ続けていてはいけない。このどうしようもない行き止まりのような人生を救うのは、死ではないのだ。鬱の時、周囲の声に耳を傾けることが出来なくても、生きていく気力が湧かなくても、頑張って何かをしなければと思わなくていい。君が生きていてくれるだけでいいのだ。そうしているうちにトンネルの出口が見えてくるし、生きる気力も湧いてくる。死は不可逆だということを、忘れてはならない。

たいてい死と救済について考えるのは家族が寝静まった26時だった。26時の静けさは、私の思考がまとまるのを待ってくれる。私は大学の進級を失敗してしまったけれど、家族や友人から愛されていて、なにより最愛の犬がいつも私の頬を伝う涙をなめてくれた。それだけで十分なのだ、人生というものは。



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