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書き手と読み手のサイクル

読者さんや友達からの感想を読むと、いつもハッとさせられる。どれも、書き手の私にはない視点で書かれているからだ。


文章を書く時、自分の内側の深いところにある洞窟のような場所で、何かを掘り起こしながら言葉にしている節がある。最終的には客観的な目線で読み直すようにしているけれど、文章のリズム感ばかりを気にして、内容そのものはあまり見ていない気がする。

だから、できあがったものを外に出した時、様々な感想が届いて驚く。私の作品が立方体だとしたら、ある人はそれを上から、またある人は左、またある人は斜め45°から鑑賞する。360°一周して、「ここだ!」と好きな場所を見つけて読む人もいる。同じ視点で読む人は、誰一人としていない


ステイホーム週間となった去るゴールデンウィーク、ある企画にお誘いいただいて、ひたすらnoteの下書きを読み、フィードバックを送ることをやっていた。

応募いただいた18の作品のうち、17の作品を読んだ。一日中パソコンの前に座り、時には電子辞書を開きながら、一つ一つの作品と向き合う。あーでもない・こーでもないと、フィードバックを書いては消し、書いては消しを繰り返した。

その時、ようやく気がついた。私には、いつも読者さんからいただいているような感想を書くことができない、と。

私は、書き手に「新しい視点」を授けるような感想が書きたかった。いつも読者さんが私に送ってくれるような、視界の開ける感想を。でも、できなかった。文章を読んでいる時、私の視点は「自分だったらどう書くか」「この表現で読者に伝わっているか」の2項目に集中していた。

私の目線は、「読み手」ではなく「書き手」でしかなかった。


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大学生の時、文芸創作ゼミに所属していた。4000字程度の小説を発表し、直木賞作家の教授とゼミ生全員で批評(フィードバック)を送る。学内では少し変わったゼミだった。

批評を受けている最中、作者は反論できないルールだった。自身の作品に対して、発表後に「これはこうで、こういう小説なんです」と説明するのは御法度。表現したいことは、すべて小説の中で読ませなければならなかった。

ある回のゼミで、作品をコテンパンに批評された先輩がいた。

プロを目指す人も多かったし、書き手も読み手も全力で臨んでいた。作品にちょっとでもほころびがあれば徹底的に突かれる。突かれるのは作者だけではない、読み手もだ。甘い批評をすればーーたとえば、作者が書いていないことを読み手側で勝手に補おうものなら、「どこでそう思ったの? そんなこと書いてなかったよね?」と読み手側も突かれる。ゼミは、集中力を研ぎ澄ましていないと殺られるような場所だった。

辛辣な批評が集まったその先輩を哀れんでか、教授が「本当は何を書きたかったの?」と問いかけたことがあった。自らが作ったルールを教授自身が破るなんて意外だった。口を開くことを許された先輩は弁解する。

そして教授は、呆れて言った。

「読者は書いてあることで判断する。そう読ませたいならちゃんと書き切らないと」


ーーゼミで学んだ「書く」と「読む」が、今も私の指針になっている。


文章を書く時、できるだけ読み手に疑問を持たせないようにしている。

読んでいる最中に疑問が浮かぶと集中できないし、何より作品に入り込めない。疑問の答えを読み手が好きに想像することで、誤解を招いてしまう危険性もある。書き手として、「表現したいことを読み手に正しく読ませる力」があるか問われているとも思う。(意図的に疑問を持たせることもあるけれど、疑問を持ちながら先を読みすすめさせるには高度なテクニックが必要なのではないだろうか)


文章を読む時、書いてあることでしか判断しないようにしている。

書いてあることを、書いてあるままに受け取る。書いていないことを独断と偏見で補うことはしない。自分の想像が筆者の意図と同じだとは限らないし、その状態で意見を述べるのはすごく危険だからだ。

以前、私が一言もそうだと書いていないのに、勝手に自分の文脈で想像を広げ批判してくる人がいた。俗に言うクソリプだ。私としては「そうは書いていないですよね」としか言いようがないのだけど、すると「勘違いさせることを書くな!」と言われたりもする。

書いていないことに思いを馳せ、想像を巡らすのは自由だ。でも、自分のものさしに当てはめて想像したことを、「絶対にそうだ」と決めつけるのは、火種になる可能性もある。


「表現したいことを正しく読ませる力」は書き手に必要な能力だし、書き手である以上、その能力を高めていかなければいけない。それに、「読み手は読みたいように読む」ということも、多くの書き手がわかっている。だけど、すべての読み手がどんな文脈を持っているかを把握し、それを全部カバーして書ける人なんて、この世に存在するはずがないのだ。

「表現したいことを正しく読ませる力」が書き手に求められるように、「書いてあることを正しく読む力」も読み手に求められているんじゃないかと、私は思う。


私は、「表現したいことを正しく読ませる力」のある書き手がつくった作品を、「書いてあることを正しく読む力」をもつ読み手が読んだ時に、クリエイティブをより良くする循環が始まるんじゃないかと考えている。

まず、書き手が表現したいことをしっかりと書き切る。そして、読み手がきちっとそれを受け取り、咀嚼し、感想を生み出す。その感想には、必ずと言っていいほど、書き手をハッとさせる新しい視点がある。我々書き手は、その視点を吸収し、次の作品づくりに生かしていく。

この円環を繰り返していくことが、いい作品を生み出すことにつながるのではないだろうか。


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文芸創作ゼミにいた時、一度、書き手としての心が折れた。

稚拙な作品しか書けなかった私が悪いのだけど、ここには書けないような厳しい批評もたくさんもらった。教授に「良い」と言ってもらえたことなんて、片手で数えられるくらいしかない。

批評の多くは参考になるものばかりだった。でも、当時の私には受け止められる器がなかったのだと思う。「小さい頃からずっと小説を書いてきたんだから、上手なものが書けているはず!」という(今思えば恥ずかしい限りの)プライドが粉々に砕けた。もう二度と小説なんか書きたくないと思うようになった。

文章を書いているアマチュアには、フィードバックを求める人が多い印象がある。もちろん、私もその一人だった。良い作品をつくれるようになりたいと思ったから、文芸創作を学べる大学に進学したのだ。

だけど、フィードバックをもらうことで、心が折れてしまったら意味がない。


実のところ、今回私が引き受けたフィードバック企画も、「よくこんなに応募してくるな」と思っていた。過去に心の折れた経験をもつ私としては、絶対に応募したくない企画だった。そもそも私みたいなプロでもないたかだかこれくらいの書き手に、あーだこーだ言われるなんて嫌すぎる。すごく腹が立つ。

さらにぶっちゃけると、フィードバックを書くのもつらかった。私の書いたことで書き手を傷つけてしまったらどうしよう、かつての私のように心の折れる人がいたらどうしよう。そんな不安をもっていても、ちっとも優しいフィードバックが書けなくて。

ゼミの場合、優しさよりも厳しさが求められていたけれど、「note」という場所にいる書き手は、ひらがなで書いてしまうような「やさしさ」を求めている肌感覚がある。ゼミで繰り広げられていたような批評を書いたら、たぶん筆を折る人も出てくるだろう。それをわかっていて、厳しいことを書いてしまう私は、どこかおかしいのかもしれない。

同時に、「どの口が言ってんだ」と思う私もいた。フィードバックに書いたことは、すべてブーメランのように自分に返ってきて突き刺さる。相手を傷つける可能性も、自分が痛い思いをする可能性もある。フィードバックは、怖い


応募者の中には、私のフィードバックを「すごく勉強になった」と喜んでくれる人もいた。でも、すべて肯定的に受け取らなくてもいいのに、と思った。これくらいの書き手である私が言っているから、じゃない。どんなに権威のある人が言っていたとしても、だ。

悩みに悩んで、ここまで書いてきたはずだ。その言葉も、自分でこだわって選んだはず。納得できないことは受け取らなくていい。自分がそうだと決めたのなら、それを貫かなきゃ。作品づくりに正解なんてないのだから。

もし傷ついて筆を折ってしまうようなら、全部スルーするべきだ。フィードバックをもらうのは何のため? 筆を折るためじゃない。作品をより良くすることも大事だけど、筆を折らないことのほうが大事だと、私はそう思うから。


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もう一度文章を書こうと決めた時、自分に約束したことがある。

もう、文芸創作ゼミでもらっていたようなフィードバックは受け取らない。代わりに、読者さんからの感想を余すところなく受け取る。


あのゼミは、全員が読み手であったけれど、同時に全員が書き手でもあった。世界的に見ても、書く人より読む人のほうが多いのだから、書き手と読み手が同じ人数いるなんて異様な空間だと思う。書く人が集まった場所で行われるフィードバックは、「書き手目線」で行われることのほうが多い。

作品をより良くするためには、「書き手目線」のフィードバックをもらった方が良いだろう。同じ書き手だから、「どうしたら伝わるか」わかっているし、物語の破綻にもよく気がつく。


だけど、「書き手目線」のフィードバックは、もう受け取らないと決めた。作品を良くすることを放棄しているように見えるかもしれない。そう思ってもらっても構わない。過去の経験のトラウマもあるし、もう一度筆を折る可能性が絶対にないとは言い切れないから。

作品をより良くする方法は、書き手からフィードバックをもらうことだけではない。

これまで、私はたくさんの読者さんから感想をいただいてきた。飛び上がるほどうれしいものから、「そっか!」と私にない視点をくださるもの、それに「阿紀さんならもっと書けるはず」といった激励まで。

私は、その一つ一つを身体に取り込みながら、今日まで書いてきた。書いてこられた。たぶん私は、書き手からフィードバックをもらうより、読み手から感想をもらうほうが、モチベーションが上がってのびのびと書いていける。そんな気がする。


読者さんを信頼しているから言えることなのかもしれない。ずっと読んでもらって、やりとりを重ねて、信頼関係ができている。私自身も、すごく頼りにしている。やりたいことや迷っていることは、まず読者さんに聞く。

モチベーションを上げてくれて、新しい視点を授けてくれる読者さんと出会えたことに、感謝している。この広いインターネットで、私の文章を好きだといってくれる人に出会えること自体、奇跡だから。


まずは、しっかりと文章を書き切る。それを読者さんに読んでもらって、感想をいただく。その感想を、次の作品に生かす。「書き手」と「読み手」の循環をくりかえしながら、私はより良い作品をつくっていく。



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