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パミール旅行記7 〜パミール・ハイウェイ前編 ドゥシャンベからアフガン国境へ〜

タジキスタン(ドゥシャンベ)の2日目は、パミール・パーミットを無事受け取ることができた。また、市内のいくつかの場所を巡り、パミール出身の何人かの知人と会うこともできた。3日目はいよいよパミールに向け出発である。

(前回の話および記事一覧)

パミールへ向け出発…?

2022年8月12日朝。6時頃に起きた私は、軽く朝食をいただいてから荷物をまとめ、出発の準備を仕上げた。パミールに行くには、まずは「パミール行きの乗合タクシー乗り場」へ行き、そこで乗合タクシーと値段を交渉する必要があるが、乗合タクシー乗り場ではAさんの知り合いのDさんが私に乗合タクシーを紹介してくれることになっていた。Aさんによると、ホログまでの相場は400ソモニ(約5000円)程度とのことで、他の乗客の払う金額にも注意し、高額な運賃を払わされないよう注意すること、とアドバイスしてくれた。

パミール行き乗合タクシー乗り場までの市内タクシーはAさんが呼んでくれ、おばさんがアパートの外で待っているタクシーのところまで送ってくれた。Aさんとおばさんにはこの2日間たいへんお世話になった。感謝の限りである。

乗合タクシー乗り場にて

市内タクシーは、7時頃にパミール行き乗合タクシー乗り場に到着した。Aさんの知り合いのDさんはすぐに私を見つけてくれ、Dさんを経由して乗合タクシーのうちの1台を紹介してもらった。

車はトヨタ。車関係には詳しくないが、パミール関係のブログでよく見るランドクルーザーというやつだろう。助手席には2席分の座席が用意されており、乗合タクシーの運転手のおじさんからは、前の席の2席分を一人で使って800ソモニ(約10,000円)でどうだ、と言われた。助手席を2席分取るのは、Aさんにも勧められた方法なのだが、800ソモニはちょっと高い。Aさんからも、2席取る場合でも2人分までは払う必要は無いと言われていた。そんなこんなで1席分にしようかどうしようかと悩んでいると、600ソモニ(約7500円)でどうかと言われたので、それで乗ることにした。結果的に見晴らしも良く、気兼ねなく写真撮影などもすることができる上等な席だった。値段のほうも、後にAさんに伝えたところ「悪くない値段」と合格(?)をもらえた。

パミール行き乗合タクシー乗り場。乗合タクシー車内(助手席の2座席分確保)に座って撮影。
私の乗った乗合タクシー(中央右側)。

席が決まった後、最初は車の中で待っていたが、発車までまだまだ時間がありそうだったので降り、周囲の車や人を何となく眺めた。周囲は男の人が多かったが、女の人はヒジャブ率がドゥシャンベ基準で言えばかなり低く、ドゥシャンベ市内の他の場所とは少し雰囲気が違っていた。ドゥシャンベにいながらにしてパミールの雰囲気が感じられる気がした。

待ち時間中に、運転手のおじさんともシュグニー語で会話を試みようとした。実際には、料金交渉の時からこちらとしてはシュグニー語を話しているつもりだったのだが、気付いてもらえなかった。値段を言う時は、シュグニー語では11以上の数字はタジク語の数詞を使うので、タジク語との違いは通貨単位の「ソモニ」が「ソェーム」になる程度である。この程度ではシュグニー語だとは気付いてもらえない。そしてそれ以上の表現は私のシュグニー語力では困難である。値段に合意した時は、多分「ハラショー」だか「オーケー」だか言ったのだと思う。

おじさんとの会話の試みも、私のコミュニケーション力不足もあり、結局はおじさんがロシア語か何かで話すのを乏しい読解力で聞くだけになってしまった。最後に「クルグ(Qulugh)」とシュグニー語でおじさんにお礼を言ったつもりだったが、おじさんには目的地の「ホログ(Khorog、英語読みでは「コログ」のようになる)」と言おうとしたと捉えられてしまい、会話が成り立っていないという印象を与えてしまった。

私はコトバのできない東アジア人観光客という立場になった。人見知りが激しく自分から話しかけるのが苦手な私にとって、この誤解を解くのは容易なことではなかった。

パミール行き乗合タクシーの運転手のおじさんと

ドゥシャンベ郊外の少女

他の乗合タクシーがちょくちょく出発していく中、我々の車はなかなか出発しなかった。そんなものだと以前どこかのブログで見ていたので、のんびり待とうという心の準備はできていた。車は誰か人を待っているような感じだった。

車は乗合タクシー乗り場を出発したが…?

やがて、我々の乗合タクシーも出発した。時刻は8時20分頃だった。しかし、車はドゥシャンベをまだ出ていないであろうところで何度か止まり、やがて幹線道路から外れて脇道に入った。運転手のおじさんは誰かと連絡を取っているようだった。脇道の道路脇でおじさんは車を降り、誰かとしばらく電話をしていた。

ドゥシャンベ郊外にて。幹線道路を外れ、脇道の道路脇で停車中。この後、幹線道路に戻って再度停車した。

運転手のおじさんが車に戻った後、我々の車は幹線道路に戻り、しばらく進んだところで再び道路脇に止まった。運転手のおじさんは外に出ていき、車は当面動き出しそうに無かったので、道端に座っている人や道行く人をぼんやりと眺めることにした。

道端に座っている男の人はいわゆるイスラム風の服装や帽子をしている人が多く、道行く女の人もほとんどがタジク風ドレスにヒジャブをしていた。思えば一昨日空港に到着した時から、あるいはそれより前のアルマトイの空港でのチェックインの段階から、「タジキスタンは伝統色が強い」という雰囲気を何となく感じていたが、このように郊外の街角で老若男女を眺めていると、それがより一層強く感じられた。

どれくらい時間が経ったか、ふと、タジク風ドレスだがヒジャブをしていない女の人が、いわゆる西洋風の服装の少女を連れて歩いているのが見えた。こういう人もいるんだ、少し珍しいな、と思っていると、そのタジク風ドレスの女性が運転手のおじさんと何か話をし、少女のほうは我々の車に乗り込んできた。少女はこの乗合タクシーの乗客で、お母さんにここまで送ってもらっていたようだった。

伝統色の強いタジキスタンの中にあって、パミール人(イスマーイール派)は西洋色が強い、というイメージを、私は半ば先入観的に持っていたのだが、その先入観が実体験となったような出来事だった。

乗客は以上で全員揃ったようで、以降は車は順調に進んでいった。時刻は9時半を過ぎていた。車内は、前列には運転手のおじさんと私、中列にはおじさん(お兄さん?)二人とタジク風ドレスの少女一人、後列には少年が一人と、最後に乗ってきた洋装の少女、それからもう一人おじさん(お兄さん?)が乗っていたような気もするが、狭い車内での長時間の旅にもかかわらずよく確認しないままになってしまった。運転手さんを含め7〜8人での旅。私以外は全員パミールのシュグナーン(ホログとその周辺)の人のようで、車内の共通語はシュグニー語だった。

乗客が揃い、改めてパミールへ向け出発

アフガニスタンへの道

ドゥシャンベからパミール方面へと向かう道は、パミール・ハイウェイと呼ばれている。ドゥシャンベから我々の目的地ホログへの道は、最初はタジキスタン国内を南下するが、中盤以降はアフガニスタンとの国境の川沿いをひたすら走り続ける予定である。

アフマド・ザーヒル

ドゥシャンベの街を離れてしばらくしたところ

我々の乗合タクシーはドゥシャンベの街を離れて走り続けた。しばらく平地風のところを走った後で、山がちな地形になった。途中にはトンネルもいくつかあったが、トンネル名がタジク語と漢字で書かれているものもあり、中国の資金によるものなのだろうと思った(が、実際にはむしろ日本がかかわっているものかもしれないということに本稿執筆中に気付いた)。

途中で通過したトンネルのひとつ。タジク語で「Нақби озодӣ(ナクビ・オゾディ)」、漢字で「自由隧道」と書いてあった。何となく中国かと思っていたが、本稿執筆中に写真をあらためてよく見てみると、どうも日本が深くかかわっているアジア開発銀行(ADB)によるものらしい。

山がちな地形が続く中、同乗者の誰かが「これからアフガニスタンに行くぞ」といった趣旨のことを言い、車内が少し盛り上がった。ちょうど車内では、アフガニスタンのレジェント的歌手、アフマド・ザーヒル(1946-1979)の歌が流れていた。曲名は不明(聴いたことがあるかも不明)だが、その特徴的な美声でアフマド・ザーヒルだと容易に分かる。

「もうアフガニスタンとの国境になるのか」と思ってGoogle Mapを見てみたが、国境はまだまだ先だった。とはいえ、アフマド・ザーヒルの歌声に、これからアフガニスタン(の一歩手前)まで行くんだな、という思いがあらためて湧いてきた。

アフガニスタンと言えば、多くの人は戦争やテロ、貧困や荒廃をイメージするかもしれない。しかし、歴史的にはルーミー(1207〜1273)をはじめとした偉大なペルシア語詩人を輩出し、またヘラートなどの歴史上重要な都市を有しており、私にとっては歴史と文化の宝庫とでも言うべき一種の憧れの国である。今回の旅の目的であるパミールやイスマーイール派についても、パミールにイスマーイール派をもたらしたナーセル・ホスロー(1004頃〜1070以降)は現アフガニスタンのバルフの出身であるし、お墓もアフガニスタン側のバダフシャーンにあるなど、縁は深い。無論、現在のアフガニスタンは呑気に物見遊山ができるような状況ではないが、せめて国境越しに間近に見てみたいという気持ちはあった。

そのアフガニスタンを、あと数時間で見ることができるのだ。

アフマド・ザーヒルの歌を聴きながら走る(ビデオから切り出し。どの曲か調べたいが、私のペルシア語力では文字起こし困難…。なお、時間帯的には「自由隧道」より少し手前)

ピスタ(またはピスタチオ)

ドゥシャンベからホログに行く途中には、大きな街としてはクローブ(ロシア語で「クリャーブ」)がある。

そのクローブの手前のどこかの村の道の脇で小停止している時、小さな男の子が車の窓に近づいてきて「ピスタ」を買わないかと持ちかけてきた。最初、何のことか分からなかったが、「ピスタ」をイラン風の発音にすると「ペステ」(ピスタチオ)になることに気付き、ピスタチオだと分かった。というより、「ピスタ」という発音はそのままピスタチオではないか。「ペステ」と「ピスタチオ」が発音が似ているとは思っていたが、ペルシア語の古音(タジク語音は古音に近い)だとチオを除いて同じ発音になるのには初めて気がついた。

さて、そのピスタだが、紐に通して束にしたものが80ソモニ(その時の私には1ソモニ=10円強という感覚。実際には当時のレートで約13円)だと言われた。なんだか高い気がしたが、ピスタチオは日本でも高めだし、ソモニでの金銭感覚もつかめていない。同乗者にこれは高いのか安いのか聞いてみたところ、同乗者の一人のタジク風ドレスの少女曰く、

「very expensive(非常に高い)」

とのことだった。私はその値段では買わないことにしたが、男の子は35ソモニでどうかと言ってきた。30はどうかと聞いたところそれでは売らないとのことだったので、結局35ソモニで買った。それでも相当なぼったくり価格だったのか、同乗者からは多少怪訝な目で見られている気がしたが、

「私はピスタが好きです」

と言い訳?をして、ピスタチオを食べた。ピスタチオは実の部分に糸が通されており、微妙に食べにくかった。他の乗客はいらないとのことだったので自分一人でちょくちょく食べたが、結局10分の1を食べたかも怪しい程度になってしまった。もっとも、それでも日本国内で買おうとしたら350円分程度にはなる量を食べたかもしれない。

クローブ手前の田園風景。ピスタチオを買ったのは多分もっと手前。
クローブが近づくと、左手に線路が見えてきた。列車が走っているところは見れなかったが、私は鉄道オタクなので線路だけでも割と興奮した。写真はクローブすぐ近く。
クローブの入り口には門があった

クローブ

乗合タクシーはクローブで昼食のためレストランに入った。レストランの駐車場には、他にもいくつかパミール方面行きと思しき乗合タクシーが停まっていた。

クローブのレストランに駐車中(レストランは左手前の階段を上がったところ)。レストラン内での写真は例によって撮ってなかった…

食堂では、同乗者のお兄さんが食べる前にフォークとスプーンを紙で拭いているのに気付いた。そのままでは衛生面で問題があるのだろうか? 私も真似をしてフォークとスプーンを紙で拭いたてから食べた。以降に立ち寄った食堂でも、他のお客はそのようにしており、私もそのようにした。

クローブを出た後は、やや大きめの山を超える道になった。基本的になめらかなその道は、最近作られた新しい道のようだった。途中に一箇所、新しい道は建設中で迂回路のように砂利道を走るところがあったが、そこも来年かそこらには新道になっているだろう。

クローブ市内を走る
ゆるやかに山を登っていく
砂利道。来年には新しい道路になっているかもしれない。
新道の橋が建設中だった

乗合タクシーの同乗者とは、ドゥシャンベ出発当初は無言、その後は英語か何かで少しずつコミュニケーションを取るようになったが、この頃には私がシュグニー語が少しできることにも気付いてもらえた。私は同乗者のお兄さんに「シュグニー語が『ドゥース(少し)』話せる」と言ったが、それが何かのツボにはまったのか、車内では「ドゥース・ドゥース(少し)」が一種の流行語のようになった。

検問、そしてアフガン国境へ

山の途中に検問があった。運転手のおじさんが手続きを行ったが、私も直接検問所に行く必要があると言われ、一人で検問所の小屋へと向かった。

検問所の小屋は道路より少し高い位置にあり、道路脇から階段状になっているところを少し上った。頭は車内ではシュグニー語モードになっていたが、階段を上っているうちにタジク語モードに切り替え、小屋の中の兄さんに

「サローム・アレイクム!」

と挨拶した(シュグニー語では若干発音が変わって「サローモレーク!」となる)。

検問所のお兄さんはパスポートとパミール・パーミットをチェックし、番号を紙のノートに控えていた。「ビザはあるか?」と聞かれたので、いったん道路に降りて車に戻り、ビザを持って再度階段を上がった。

手続きは特に問題なく完了した。パミール・パーミットはゴルノ・バダフシャーン州に行くのに必要な許可証であり、ゴルノ・バダフシャーン州との境界はまだもうしばらく先のはずなので、これからまた何度かこういう検問で手続きをする必要があるのかな、と思った。しかし、自分で手続きをする必要があったのはここだけだった。

検問をぬけ抜けてしばらく行ったあたり(のはず)。ちょっと険しくなってきた。
道も割と荒れてきた(が、すぐにまたきれいな道になった)

検問を抜け、やや険しい道をしばらく走ると、眼下に大きくゆるやかな谷が開けてきた。おそらく谷の向こうはアフガニスタンだろうと思ってGoogle Mapを見てみると、やはりアフガニスタンのようだった。

(ただし、本稿執筆中に改めて地図を見てみると、その時正面から右手にかけて広がっていた谷は、真ん中のあたりから右奥のほうにもう一本別の谷が伸びていて、その手前側の山と谷はタジキスタンだった。私が「初めてこの目で見るアフガニスタン」と思っていた光景のうちの半分強は、実際にはまだタジキスタンだったようである。)

谷の向こう側はアフガニスタン…だと思っていたが、この写真に写っている部分はまだタジキスタンだったということに本稿執筆中に気付いた。
谷の向こう側のうち、左側から中央にかけてが正真正銘のアフガニスタン。右側は、よく見ると国境となっているパンジ川が奥のほうに流れており、写真右端の手前側にある岬状の山はまだタジキスタンである。

直線部分の長いつづら折りの道を、車は谷の底部へと降りていった。私は時々体の向きを変えながら、徐々に近づいてくるアフガニスタンの大地を眺め続けた。

(続き)


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