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パミール旅行記5 〜ドゥシャンベ初日〜

人生初のタジキスタンに無事到着した私は、ドゥシャンベ国際空港で知人のAさんに会うことができた。ここからまずは、パミール・パーミットを取得すべくOVIRに向かう。

(前回までの話)
パミール旅行記 1 〜序章〜
パミール旅行記 2 〜準備編〜
パミール旅行記 3 〜日本からカザフスタン(アルマトイ)へ〜
パミール旅行記4 〜カザフスタンからタジキスタン(ドゥシャンベ)へ〜
(記事一覧)
タジキスタン・パミール旅行記

ドゥシャンベ・ザラフション地区のレストランにて。この日のドゥシャンベでの写真は、データを見返してみるとここで撮った2枚だけだった(同じ構図で私のポーズが少し違う)。緊張していてあまり写真を撮った記憶がなかったとはいえ、まさか街の写真の一枚も撮ってなかったとは。。。ということで、今回の現地での写真はこれだけでご容赦ください。次回からまたいろいろ写真を載せる予定です。

空港からOVIRへ

ドゥシャンベ国際空港を出た私とAさんは、まずはタクシーでOVIRへと向かった。

OVIR(ОВИР)とは、「ビザおよび登録部署」を意味するロシア語「アッジェール・ヴィーズ・イ・レギストラーツィイ(Отдел виз и регистрации / Otdel viz i registratsii)」の略称であり、私が正確な名称を把握したのは本稿執筆中なのだが、現地では「オーヴィール」と言えば普通に通じる。パミール・パーミット未取得の外国人がパミールに行く場合、ここでパーミットを申請する必要がある。

OVIRにて

AさんはOVIRに行ったことがあるとのことで、OVIRの建物の前に到着後、我々はまずは建物の向かって左側の入口に向かった(Aさんは以前そちらに用事があったようだった)。ただし、警備の人にパミール・パーミットの取得はそこではないと言われ、向かって右側の入口に行くことになった。

OVIRの中はあまり広くなく、待合兼受付スペース的なところで数人の人が待っていた。私はタジク語で「イジョーザノーマ・バ・ポーメール、メーホーハム!(パミールへのパーミットが欲しいです!)」的なことを言い、Aさんにも手助けしてもらいつつ、申請を行った。即日取得できないかという期待も依然として僅かには持っていたが、しばらく待った後、課長か部長的な雰囲気のお兄さんから英語で「トゥモロウ、スリー・オクロック!(明日3時!)」と容赦なく言われた。

パミール・パーミットは、即日入手は無理だったが、ともかくも明日の午後には入手できそうということになった。パミールへの出発は明後日の朝ということになる。

ところで、パーミット取得には手数料が必要なはずだが、私は代金を払った記憶がどうも無い。事前に見たブログでは「銀行振込をしてレシートを提出」という情報を見たが、銀行振込はしていない。両替もしていなかったから私がその場でソモニで払うことも不可能である。今思うに、Aさんが建て替えてくれていて、そのまま精算しないままになってしまったのかもしれない。Aさん側からはその後何も言ってこなかったが、もしそうだとしたら申し訳ない。。。

両替およびSIMカード購入

OVIRの後は、SIMカードを購入することにした。その前に、まずはドルをソモニに両替することにした。OVIR近くにある銀行にAさんと向かい、時間外窓口だか両替専用窓口だか的なところで100ドル分ほどソモニに両替した。

人生初のSIMカード

SIMカードを購入するのは、実は今回が人生初である。今まで海外に行った時は、何だかんだでSIMカードを買いそびれてしまい、あまり便利ではないとはいえネット環境は宿等でどうにかなり、街中はオフラインマップアプリで済ませた。しかし今回は現地の複数の知人と連絡を取り合う予定なので、SIMカードが無いと非常に不便である。

SIMカード売り場では、受付のお姉さんがいろいろなオプションを案内してくれたが、私はSIMカードを買うのは初めてで、国内でも普段は容量を原則気にしないで良いモバイルWiFi経由でスマホを使っているので、自分がどういうものを必要としているのかあまり把握できておらず、さらにオプションの説明もロシア語+タジク語でありよく分からずにいた。最終的にAさんに選んでもらうことになったが、どういうオプションなのかあまり把握できておらず、以降は念のため通信量セーブ気味にスマホを使うことになった。ひょっとすると容量に余裕がありすぎる状態で使い続けていたかもしれない。

ドゥシャンベで買ったSIMカード。帰国後(というより本稿執筆中に)撮影。「Алоқа барои ҳаёт!(アローカ・バローイ・ハヨート!)」は「日々のための通信!」的な意味?

ザラフション(ザラフシャーン)へ

SIMカード購入後は、タクシーでAさんの家に向かった。明後日のパミールへの出発まではドゥシャンベのAさんの家に滞在させてもらう予定である。

ザラフシャンとバダフシャン

タクシーの運転手のお兄ちゃんに、Aさんは「ザラフション」という地名を伝えた。ザラフション(ザラフシャーン)というのは、どこかで聞いたことのある地名だった。具体的には、川の名前であったり、ドゥシャンベの近くじゃない町の名前(いくつか同名の町があるようだが、ウズベキスタンのものが比較的知名度が高そう)であったりする。

ザラフションがどこかも気になったが、ザラフションとパミールの別名であるバダフション(バダフシャーン)が、母音の配置が同じで「-ション(-シャーン)」で韻を踏んでいることも印象的だった。日本語のカタカナ読みをすれば更に「-aフション」まで韻を踏んでいることになる(タジク語での発音はZarafshonとBadakhshonで「フ」の音が違う)。単にそれだけの理由でだが、パミール目的で来ている私としては何となく惹かれるところがあった。

今回のザラフションは、結論から言うとドゥシャンベ北西部の地区名だった。とはいえ、その後も私は「一人でタクシーに乗って『ザラフシャンに行きたい』と言って、ドゥシャンベ市内じゃないほうのザラフシャンに連れて行かれたらどうしよう」という心配を一人で勝手にしたりもした。

ハーフェズの詩を暗唱

タクシー車内では、助手席(運転席の右側)には私が、後部座席にはAさんが座った。

運転手のお兄ちゃんとAさんはタジク語で話をしていたが、最初はそれが何語なのか分からなかった。タジク語は、私が今のところ一番親しんでいるペルシア語であるイランのペルシア語とは、発音や表現にそれなりに違いがあるのだが、運転手のお兄ちゃんの話すタジク語は、そういった細かいところ以前に、全体的なイントネーションがかなり違うように感じられた。ドゥシャンベ人の話すタジク語は標準タジク語とかなり違っているという話を聞いたことがあったが、それが原因なのか、単に私のタジク語力不足(あるいはペルシア語力不足)なだけかは不明である。

とはいえ、運転手のお兄ちゃんの話す言葉も、間もなくタジク語らしいということを認識できる程度には聞き取れるようになり、私も会話に加わることになった。

「中国人?」
「彼は日本人だよ」
「バレ、マン・ジョポニー・ハスタム(はい、私は日本人です)」
「彼はタジク語やロシア語、シュグニー語も話せるよ」
「へえ、タジク語、どうやって習ったの?」
「マン・アシュオーリ・フォールスィー・ロー・ドゥースト・メードーラム、ザボーニ・フォールスィーイ・エーローニー・ロー・ヨード・メーギーラム(私はペルシア語の詩が好きで、イランのペルシア語を勉強しています)」

私の話した表現や発音がどの程度タジク語風かは不明だが、イラン(イーラーン、イーローン)がタジク語で「エーローン」になるところは意識して答えた。

「彼は詩をよく知っているんだよ。何か詩を詠んでみて」

Aさんからリクエストされた私は、自分は詩は少ししか知らないと恐縮しつつも、タジキスタンなのでルーダキーの詩を詠みたいと思った。しかし、詩の出だし部分が思い出せそうで思い出せない。そもそも出だしを思い出せたところで、その先は断片的にしか覚えていない。メモ帳にルーダキーの詩を何かメモしていた筈だからちょっと待って、と言うと、Aさんから「メモを見ずに暗誦して」と追加のリクエストがあった。

「ホーフィズィ・シェーローズィー・ロー・ボー・フォールスィーイ・エーローニー・メーホーナム(シーラーズのハーフェズをイランのペルシア語で詠みます)」

私はつっかえつっかえのタジク語で、ハーフェズの詩のひとつを詠みたいと言った。数年前のシャベ・ヤルダー(イランの冬至祭)のハーフェズ占いで引いた詩で、私がハーフェズの魅力に気付いた最初の詩であり、今のところ紛いなりにも暗誦できる唯一のハーフェズの詩である。タジク語音で詠める自信は無いのでイランのペルシア語音で許してもらうことにし、ひと呼吸置いて詩を暗誦した。

デル・ミーラヴァッ・ゼ・ダスタム、サーヘブデラーン・ホダー・ラー
ダルダー・ケ・ラーゼ・ペンハーン、ハーハド・ショダーシュカーラー
(心は我が手を離れていく、おお賢者よ、神かけて)
(ああ、苦しい、隠された秘密は暴かれるだろう)

キャシュティー・シェキャステガーニーム、エイ・バーデ・ショルテ・バルヒーズ
バーシャド・ケ・バーズ・ビーナム、ディーダーレ・アーシュナーラー
(我らは難破した船、おお、順風よ吹いてれ)
(懐かしい人に再び会えるだろう)

ダフ・ルーゼ・メフレ・ギャルドゥーン、アフサーネ・アスト・アフスーン
ニーキー・ベ・ジャーイェ・ヤーラーン、フォルサト・ショモール・ヤーラー
(天輪が10日間の温情をもたらすというのは、物語や呪文の類)
(愛しい人よ、友に善をなすことを好機とせよ)

ダル・ハルゲイェー・ゴロー・モル、ホシュ・ハーンド・ドゥーシュ・ボルボル
ハーテッサブーハ・ホッブー、ヤー・アイヨハッセカーラー
(昨夜、酒と花の集いで啼鳥は楽しく歌った)
(「朝酒を持ち来たれ、おお、酔える者よ」)

エイ・サーヘベー・キャラーマト、ショクラーネイェー・サラーマト
ルーズィー・タファッゴディー・コン、ダルヴィーシェ・ビーナヴァーラー
(おお、温情を持つ者よ、健やかな暮らしを感謝せよ)
(時には貧しい托鉢僧(ダルヴィーシュ)に同情せよ)

アーサーイェシェー・ド・ギーティー、タフスィーレ・イン・ド・ハルファスト
バー・ドゥースターン・モロッヴァト、バー・ドシュマナーン・モダーラー
(現世と来世での安らぎはこの二言の解き明かすところ)
(友には寛容、敵には温和)

ダル・クーイェ・ニークナーミー、マー・ラー・ゴザル・ナダーダンド
ギャル・ト・ネミーパサンディー、タグイール・コン・ガザーラー
(名声の道は、我らには通されなかった)
(気に入らないのなら、運命を変えるが良い)

アーン・タルフヴァシュ・ケ・スーフィー、オンモルハバーエサシュ・ハーンド
アシュハー・ラナー・ヴァ・アフラー、メン・ゴブラテルアザーラー
(神秘主義者が「忌まわしさの母」と呼ぶかの苦きもの(酒)は)
(「我らには乙女の接吻よりも甘美なり」)

ヘンガーメ・タング・ダスティー、ダル・エイシュ・クーショ・マスティー
キン・キーミヤーイェ・ハスティー、ガールーン・コナド・ゲダーラー
(困窮の中にある時は、楽しみと酔いを求めよ)
(この存在の錬金術は、乞食をカールーン王となす)

サルケシュ・マショウ・ケ・チョン・シャムゥ、アズ・ゲイラタト・ベズーザド
デルバル・ケ・ダル・キャフェ・ウー、ムーマスト・サンゲ・ハーラー
(逆らうな、恋人は妬みで蝋燭のように我らを燃やすだろう)
(恋人の手の中では、岩石も蝋のようなもの)

アーイーネイェー・セキャンダル、ジャーメー・メヤスト・ベンギャル
ター・バル・ト・アルゼ・ダーラド、アフヴァーレ・モルケ・ダーラー
(見よ、アレクサンドロスの鏡は世界を映す酒盃)
(そなたにダレイオスの王国の様を示すだろう)

フーバーネ・パールスィーグー、バフシャンデガーネ・オムランド
サーギー・ベデッ・ベショーラト、レンダーネ・パールサーラー
(ペルシア語を話す佳き人は、生命をもたらす者)
(酌童(サーキー)よ、敬虔な放蕩者にこの吉報を告げよ)

ハーフェズ・ベ・ホド・ナプーシード、イン・ヘルゲイェー・メヤールード
エイ・シェイヘ・パーク・ダーマン、マアズール・ダール・マーラー
(ハーフェズは酒にまみれた弊衣を自ら着たのではない)
(おお、清らかな長老よ、我を許し給え)

ハーフェズ(黒柳恒男訳の記憶を参考にしつつ拙訳)

途中、フレーズを忘れかけつつもどうにか最後まで暗誦することができた。

「すごいね、こんな長い詩を覚えている人、タジキスタンにはそういういないよ」

運転手のお兄ちゃんからお褒めの言葉をいただき、Aさんも自慢げな様子で、嬉しかった。


タクシーの窓から眺める街の風景は、なかなか言葉にするのが難しいが、どこかロシアっぽくもあり、どこかイランっぽくもある、と思った。旧ソ連圏かつペルシア語圏なのだから、ある意味そのまんまの感想ではあるが。

やがてタクシーはドゥシャンベ北西部のザラフション地区に到着した。

ザラフションにて

ザラフションでは、まずはAさんの家に向かい、荷物を置かせてもらうことにした。Aさんの家はアパートの上の方の階で、エレベーターや廊下はかなり年季が入っていたが家の中は広くてきれいだった。

Aさんはおばさんと暮らしていた。優しそうな物腰のおばさんだった。

「サローモレーク、アズ・トゥ・ウィントーユム・ラパス・フシュ!(こんにちは、お会いできて嬉しいです!)」

私はおばさんにシュグニー語で挨拶をし、Aさんに促されて握手をした。

タジク料理店へ

Aさんの家に荷物を置かせてもらい、まずは食事に行くことにした。Aさんから西洋料理とタジク料理のどちらが良いか聞かれ、タジク料理店に行くことにした。

アパートを出ると、中庭の地面にはけっこうな量のゴミが落ちており、壁の一角には大量のゴミが投げ込まれて悪臭を放っていた。

「これがタジキスタンの良くないところだよ。日本にはこういうのは無いだろう?」

Aさんは自嘲気味に言った。日本では街中ではこういうのはあまり無いが、山の中での不法投棄はある、と答えると、

「ここではこれは合法なんだ」

と同じく自嘲気味に言った。

悪臭は気になるが、中庭を出ると路上では果物やいろいろなものが売られており、日本には無い活気があった。

大通りに出てマルシュルートカ(小型バス)に少し乗り、目的の食堂に到着した。店内は、床より嵩上げした台的なところに敷物を敷き、その上に座って食事をするスタイルだった。私が今までに行った国の中では、イランで見かけるスタイルで、シーラーズの宿ではこのスタイルで朝食を食べた。久々のペルシャ風食事スタイルが懐かしかった。

食堂ではマントゥ(水餃子を大きくして水を少なくしたようなもの)、ポロウ(中央アジア版ピラフ、というよりピラフが中央アジアじゃない版ポロウ?)、そしてもう一品、酸味のある料理を食べた(名前を教えてもらったが忘れてしまった)。マントゥとポロウはおいしかった。「酸味のある料理」は慣れなかったが、慣れたら好きになりそうと思った(最初は慣れなかったが今は大好きなイランの飲み物ドゥーグを連想させる味だった)。ただし、長旅での疲れもたまっており、さらに気温も高く冷房も無かったためか、あまり食欲がわかず、量はそんなに食べることができなかった。

露店にて

食べきれなくなった後、残った料理(主にポロウ)を包んでもらって、タジク料理店を後にした。

「日本ではこういうことはしないだろう?」

とAさんが言った。そういえば日本では残り物を包むのはそうそう見かけない気がする。いつからそのようになったのだろうか。

マルシュルートカでAさん宅近くまで戻り、大通りを少し歩くと、Aさんは露店のひとつに立ち寄った。

露店では、ヒジャブ完全装備のいわゆるイスラム風の服装の、しかし陽気そうな雰囲気のお姉さんが飲み物を売っていた。タジキスタンでは女性のヒジャブ率はかなり高く、今朝までいたカザフスタンとは別世界の感があった。実際に覆われている髪の面積率で言えば、強制ヒジャブだが浅く被っている人が少なくないイランの首都テヘランよりも高いのではないだろうか。

「お兄さん、カッコいいね。イラン人?」

露店のお姉さんがAさんに言った。

「パミール人だよ。こっちの彼は日本人で、タジク語も話せるよ」
「マン・ザボーニ・トージーキーロー・カメー・ガプ・メザナム(私はタジク語を少し話します)」
「素晴らしい! タジク語上手だね!」

そんな会話をしつつ、Aさんと私はお姉さんから飲み物を買った。

飲み物には酸味があり、小さく切った果物やキュウリが浮かんでいた。イランのドゥーグに似ている、とAさんに言うと、まさにドゥーグとのことだった。

「タジキスタンの食べ物や飲み物はどう?」
「うん、良いと思う。だけど、キューカンバー(きゅうり)が…」

Aさんに聞かれ、私は多少悩みながら答えた。私はドゥーグは好きなつもりだったが、この飲み物にはけっこうな量のキュウリが入っていた。先ほどの食堂での「酸味のある料理」もキュウリがけっこう入っていた。そして私はキュウリが苦手である。

私がキュウリが苦手な理由は不明である。私の家族も身近な人も皆キュウリは好きであり、子供の頃、庭で採れたキュウリを私以外の家族がおいしそうに食べているのを羨ましく眺めていた記憶がある。私もキュウリと近縁なウリ科の野菜や果物については基本的にはどれも好きである。ただキュウリと、キュウリ味のする赤毛ウリだけが、何故か極端に苦手である。

そんなことを話す私を、Aさんは「まあまあ」といったような感じで聞いていた。


Aさん宅への帰宅後は、Aさんといろいろな話をした。私の語学力不足もあり、Aさんとの会話は例によってほとんど英語になってしまったが、英語の話せないおばさんとも、シュグニー語やロシア語で少し話をすることができた。

やがて夜も更けてきた。私の寝室としては、一番上等そうな部屋を割り当ててくれた。Aさんは、20分ほど自分の部屋でお祈りをするからその間シャワーは自由に使っていいと言った。また、外気とつながっている物置き的なスペースに洗濯物干しも準備してくれた。

私はシャワーを浴びて衣類をざっと洗い、洗った衣類を干して歯ブラシをし、就寝した。

(続く)

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