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タジキスタン・パミール再訪記10 〜パミール・ハイウェイ→ホログ到着〜

ドゥシャンベからの道は、アフガニスタンとの国境地帯まで達した。ここから先は、目的地のホログまで国境のパンジ川沿いの道を走り続ける。道は前回来た時からの8ヶ月間でちょくちょく変わっている。


2車線舗装道路

アフガニスタンとの国境になっているパンジ川沿いの道は、本来のパミール・ハイウェイとの合流地点である要衝カライ・フムブまで、どこも舗装された2車線の道になっていた。前回は舗装されていない狭いところが割とあったが、今回は険しい道が無くなり、多少寂しい気もした。パンジ川は前回来た時は茶色い濁流だったが、今回は水がかなり澄んでいて水量も少ないようだった。

パンジ川沿いをしばらく進むと、再度検問があり、再度パスポートとビザ(Tさんはパスポートとスマホ)を運転手さんに渡した。「ここから先がGBAO(ゴルノ・バダフシャン自治州)だ」と隣のタジク人のお兄ちゃんが言った。地図で確認すると、Google Map上ではここよりもかなり手前のところがGBAOとの境界になっている。どちらがどうなのかは不明である。

パンジ川沿いを行く。対岸はアフガニスタン。

カライ・フムブの少し手前の、前回立ち寄ったのと同じガソリンスタンドで給油および小休憩となった。ガソリンスタンドのお店では、「Godzilla」なるエネルギードリンクを購入してみた。この名称は商標的にどうなのかは不明である。前回来た時よりも日はかなり傾いていた。

カライ・フムブ手前のガソリンスタンドにて。写真データによると時刻は19時頃。

俺達のパミール・ハイウェイ

カライ・フムブを過ぎると道は未舗装の悪路になった。「俺達のパミール・ハイウェイが帰ってきた」といった感じの言葉が頭に思い浮かんだ。

トンネル

俺達のパミール・ハイウェイを進んでいくと、途中に一箇所、前回は無かったトンネルがあった。最近(この8ヶ月以内に)できたトンネルであり、整備された道路である。

その先、アフガニスタン側が同国最北端となる地点の手前、時刻的にはほぼ日没となった頃にもう一箇所トンネルの工事をしているところがあった。地図で見てみると、完成すれば3〜4キロほどの長さのショートカットルートになるようだった。

トンネルではない現行の道はかなりの悪路で、車は途中で徐行を繰り返し、トンネルの出口になると推測される場所に辿り着くのに延々と時間がかかった。1時間ほどかかっただろうか? トンネルができればこれが数分になる。ショートカット効果は絶大だろう。もっとも、この区間はパミール・ハイウェイの他の区間にも増して悪路な気がした。近々トンネルができるので半分放置気味になってるのかもしれない、と思った。

アフガニスタン最北端を対岸に望むはずのあたりでは、完全に日は暮れていた。前回来たのは今回よりも日没の早い季節だったが、当時アフガニスタン最北端だと意識せずにこの場所を通過した時はまだまだ日があったので、時刻は前回よりかなり遅い。

スンニ派の礼拝

周囲がすっかり暗くなった頃、隣のタジク人のお兄ちゃんがお祈りを始めた。スンニ派の礼拝時刻だからだろう。激しく揺れる車内で大変そうだったが、ひととおりの礼拝を終えたようだった。

タジキスタンの宗派は、パミールではイスラム教イスマーイール派が主流だが、それ以外は基本的にはイスラム教スンニ派であり、タジク人のお兄ちゃんも敬虔なスンニ派だと思われる。お兄ちゃんは深夜にも、同じく激しく揺れる車内で礼拝をしていた。

なお、イスマーイール派はスンニ派とは礼拝の回数が違い(スンニ派が1日5回であるのに対し、イスマーイール派は朝と夜の2回)、また、恐らくはかつての秘教主義の名残りであろう、礼拝は非公開で行うことになっている。そのため、今の場合イスマーイール派では、敬虔か否かにかかわらず、礼拝は少なくとも目に見える形では行わないのが流儀だと思われる。

(イスマーイール派の礼拝が非公開なのは、歴史的には秘教主義や他宗派からの弾圧を逃れるための信仰秘匿の名残りだと思われるが、最近知ったところによると、現代のイスマーイール派は「礼拝はプライベートな事柄」という形で礼拝の非公開を理論づけているようである。)

トイレとトワレ

深夜になり、ヴァンジ地区(この時の私は「ヤズグリャム地区」と呼んでいた)のあたりで隣のタジク人のお兄ちゃんが降りた。代わりにおじさん(お兄さん?)が2人ほど乗ってきて、中列は小さな娘さんを含めて4名となった。乗ってきた2人は何語を話しているのかよくわからなかったが、他の乗客との会話の中で「キルギス」という単語が聞こえた気がしたので、2人はキルギス人(ゴルノ・バダフシャン自治州には東部を中心に一定数のキルギス人が住んでいる)で、2人の話している言葉もキルギス語かもしれない、と思った。

ちょうどTさんがトイレに行こうとして、英語で「トイレット!」と叫んだ。しかし、車内の他の人からは反応は無く、車は発車しようとしている。Tさんの声に困惑が感じられ、私は咄嗟にロシア語音で「トゥアリェート!」と叫んだ。

車内の注目がこちらに向き、Tさんは無事にトイレに行くことができた。トイレから戻ってきたTさんは、「トイレって通じないのか…」とつぶやいた。

「トイレット」と「トゥアリェート」(タジク語訛りのロシア語なら「トゥアレート」)は、元を辿れはどちらももちろんフランス語のトワレ(の古い時代の発音)である。個人的には、両者は発音が少し違うだけの同じ単語だと感じていたが、それは私があらかじめ両方の単語を知っているからであり、そうでないと微妙な違いだけでもなかなか似た単語に気付かないものである。

それにしても、普段は綴りからかけ離れた発音をして学習者を悩ませる英語だが、「トイレット」に関しては英語のほうが綴りに素直で、「トゥアレート」の元になったフランス語のほうが綴りから乖離しているな、と思った。もっとも、ロシア語・タジク語では発音どおりの「Туалет」という綴りだが。

深夜のカフェ(閉店)

夜も更けてきたが、食事はクローブの先の昼食以来、これといって取っておらず、空腹感が出てきた。Tさんも「どこかで食事しないんすかね?」と言ったので、「ホログに着く前にどこかカフェに寄ると思う」と答えた。前回来た時は深夜にカフェに寄ってナンと初シールチョーイを味わったので、それが楽しみでもあった。

ヴァンジ地区からルション地区に行く途中で、車は1軒のカフェと思しき建物の前で止まった。ただし、建物の明かりは点いていない。運転手さんはクラクションを鳴らしたり、乗客の一人(運転手さんの知り合い?)に扉をノックしてもらったりしたが、反応は無かった。運転手さんはそれなりに粘ったが、草木も眠る丑三つ時さえも過ぎようとしている時刻、カフェからはついに反応は無く、諦めて先へと進むことになった。

その先でもう1軒明かりの消えているカフェに立ち寄ったが、そこも運転手さんの努力(睡眠妨害?)にもかかわらず反応は無く、そこから先にはホログまでカフェは無いようだった。

ホログ到着

ホログの手間でキルギス語話者?のお兄ちゃんたちが降りた。私は前回も泊まったカフェ・バラカトの前の名無しの宿に泊まることにしており、Tさんもとりあえずそこで泊まろうということにしていた。

カフェ・バラカトの前には午前4時少し前に到着した。「えぐい時刻っすね」とTさんは言った。ドゥシャンベを出発してから17時間。道は前回よりいろいろ良くなっていて、一方で途中の休憩は前回よりかなり少なめだった気がするが、所要時間は渋滞で長時間停止した前回のドゥシャンベ→ホログと同程度で、14時間ほどで済んだ前回の帰りのホログ→ドゥシャンベより3時間多い。何故だ……

料金交渉 その1

ともかくも無事にホログに到着した。しかし、料金支払いの段階になって、運転手さんは料金は400ソモニだと言い出した。私は折れそうだったが、英語で「350ソモニだ」と踏ん張るTさんに加勢してシュグニー語で

「ソーラケヤト・トゥ・ロェード・セサドパンジョー・ソェーム・トゥルド・ボーフト!(朝にあなたは350ソモニで良いと言った!)」

といったような感じのことを運転手さんに何度か言った。運転数さんはかなり粘り、時として威圧的な気配も見せたが、最終的には350ソモニを普通に満足そうに受け取った。

ホログに到着。時刻は午前4時になろうとしていた。

料金交渉 その2

名無しの宿の敷地に入って宿の建物への階段を上り、宿の横にある経営者さん宅の呼び鈴を鳴らすが、反応は無かった。扉を軽く叩いたり、電話番号が貼ってあったのでそこに電話をしたりしたが、なかなか反応が無い。どうしたものかと、Tさんは建物の別の場所も見に行ったが、程なくして前回もお世話になったパミール帽のおじいさんが家から出てきた。

おじいさんは、宿代は100ソモニ(約1200円)だと言ったが、こちらが「昨年は80ソモニだった」と言うと80ソモニになった。Tさんはちょうど他の場所を見に行っていて不在だったが、いたら交渉でもっと値引きになっていたかもしれない。

宿の部屋は1つしか空きがないとのことだったが、広々とした3人部屋であり、そこにTさんとルームシェアで泊まることになった。

忘れ物 その1

宿のおじいさんは、登録を行うからパスポートを出すようにと言った。パスポートとビザを預けようとしたところ、自分のリュックをタクシーの中に忘れていることに気づいた。どうしようかと慌てる私に対し、Tさんは「運転手さんはカフェで食事をしていてタクシーはまだ停まっている」と言ったので、とりあえず急いでカフェに向かった。

タクシーはまだいて、車内には私のリュックと思しきものがあった。カフェの中に入ろうとすると、ちょうど運転手さんが出てきたところだった。荷物が車の中にあると言うと、扉を開いて持っていけと言われた。扉には鍵はかかっていなかったので、持っていこうと思えばそのまま持っていけたようである。

運転手さんに再度別れを告げ、宿のおじいさんにビザを渡し、午前5時前頃に就寝となった。

最後の最後にあやうく致命的な忘れ物をしかけたが、これは今回の私の旅行での「かなり致命的な忘れ物事件」のその1に過ぎないことになる。

(続き)

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