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タジキスタン・パミール旅行記13 〜ホログ3日目 パミール・ハウス〜

タジキスタン共和国ゴルノ・バダフシャン自治州ホログでの2日目は、市内を歩いたり結婚式に参加したりした。一方で、体調はホログ到着以来どうも思わしくない。休息が必要だろう。

(前回の話および記事一覧)

チョールボーグにて

2022年8月15日月曜日。体調が万全ならホログ以外のどこかに行きたいという気持ちもあったが、朝から体調がやや優れず、ホログ市内でのんびり過ごすことにした。

朝食後、遅めの時間にキヴェカス・ホテルを出て、チョールボーグに向かった。

チョールボーグでは、ベンチに腰掛けたり、より良いベンチを探して時々移動したりしながら、パソコンで日記を書いた。直射日光が当たるとパソコンの画面が見えにくくなるので、なるべく良さげな日陰になっているベンチを探した。

公園のメイン通りの脇のベンチに座ったり、水泳場(?)の脇のベンチで泳ぐ子供たちの歓声を聞いたり、グント川沿いのベンチでグント川の流れの音を聞いたりしながら、それなりにゆっくりと時を過ごした。

ホテルの朝食
ホテルの部屋から見える吊橋。橋を渡る人は多い。
ホテルからチョールボーグへの移動中。最近よくあるやつ。

大学生との会話

グント川から少し離れたベンチに座っていると、二人組の若者に英語で話しかけられた。

「ハロー、中国人?」

「ウズム・アズ・ヤポーニヤ(日本から来たよ)」

「シュグニー語分かるの?」

「フギノェニ・ジヴ・ドゥース・ファームム(シュグニー語、少し分かるよ)」

「俺たちは中央アジア大学の学生だよ」

「良いね。中央アジア大学の学生、何人か知ってるよ」

「誰のこと知ってる? 俺もその人のこと知ってるよ」

「えっと、○○?」

「知らん」

「△△?」

「知らん」

「□□?」

「あぁ〜、知ってる。でも今ホログにいないよ」

「うん、ドゥシャンベにいるって言ってた」

しばらく会話をした後で、挨拶をして二人の若者は去っていった。私はもうしばらくベンチに座り、のんびりしていた。

午後もだいぶ経ったので、宿に戻ることにした。いったんチョールボーグの先にある銀行まで行き、150ドルほどソモニに両替。その後、再度チョールボーグを経由して宿に帰還した。

チョールボーグにて。このあたりのベンチに座っている時に二人組の若者に声をかけられた。
ホログ市内。チョールボーグと銀行との往復中。
帰り際に再度立ち寄ったチョールボーグでアイスクリームを購入

パミール・ハウス

宿に戻ると、知人のRさんから連絡があり、今日、Rさんの家を訪問できるとのことだった。Rさんの家は、パミールの伝統的な家であるパミール・ハウス(シュグニー語で「ポーメーレー・チード」)とのこと。パミール・ハウスはまだ見る機会が無かったので、Rさん宅にお邪魔させてもらうことにした。

Rさんは今は用事があるので、用事が終わってから待ち合わせることになった。予定時刻を見計らってマルシュルートカで待ち合わせ場所のショッピングセンター「Pamir Plaza」に向かい、無事Rさんと合流、タクシーでRさんの家へと向かった。

Rさんの家は、昨日と一昨日に私が歩いた道から脇道に少し入ったところにあった。庭には木々が植わっているが、今年は水が足りずに既に葉っぱが黄色くなっている、とのことだった。

家に到着後、ご両親と弟さんを紹介され、挨拶をした。それから、玄関を入って少し横に入ったところにあるパミール・ハウス構造の部屋に案内された。

5本の柱に、四角を組み合わせた窓付きの天井。まさに見たいと思っていたパミール風の家だった。部屋には、間もなくRさんの友人の一人も来て、お互いに挨拶をした。

Rさんと
Rさんの友人氏と

パミール・ハウスの柱の意味

Rさんは私に、パミール・ハウスについて解説してくれた。パミール・ハウスはパミールがイスラム教になる以前のゾロアスター教時代からの構造を受け継いでおり、柱などの家の各々の機構には、ゾロアスター教時代にはゾロアスター教での象徴的な意味合いが付けられてたとされ、イスラム教になってからはイスラム教での象徴的な意味合いが再定義されている。

Rさんによると、5本の柱は、入口から見て右手前の柱が預言者ムハンマドを、右奥の柱がアリー(ムハンマドの甥で娘婿。シーア派初代イマーム)を、左奥の柱がファーティマ(ムハンマドの娘でアリーの妻)を、左手前の二本の柱がハサンとフサイン(アリーとファーティマの二人の息子)を象徴しているとのことだった。(なお、シーア派の多くは宗派ではハサンとフサインの兄弟を二人ともイマームとみなすが、パミールの主要宗派であるイスマーイール派ニザール派ではフサインのみを正式なイマームとする。ただし、ハサンも正式なイマームではないもののほぼ同格扱いのようである。)

左手前の二本の柱のどちらがハサンでどちらがフサインか気になったのでRさんに聞いたところ、これらの柱はアリーとファーティマの二人の息子を象徴しており、どちらがハサンでどちらがフサインということは無いとのことだった。

Rさんにパミール・ハウスの写真を撮っても良いか聞いたところ、もちろんOKとのことだった。ただし、ムハンマドの柱の上部には「我々のSpiritual Leader」(イスマーイール派ニザール派の現イマームであるアーガー・ハーン四世殿下)の写真があり、そこは不可、とのことだった。

後で、Rさんがムハンマドの柱の上のアーガー・ハーン四世殿下の写真を見せてくれた。枠の中に飾られた明るい花柄の片隅に、今よりもだいぶ若い殿下の写真が飾られていた。殿下がこの写真の歳だった頃から、大切に飾られているのだろう。

パミール・ハウス。正面奥(テレビの手前)の柱がファーティマの柱。
パミール・ハウスの屋根構造

パミール・ハウスにて

パミール・ハウスでは、Rさん、その友人、私の三人で、食事をいただきつつしばし歓談した。しかし、例によって私は食欲不振で、食事はあまり食べることができず、途中でおなかいっぱいになってしまった。Rさんからは、食事を全部食べるのが礼儀と言われ、私も日本でもそれが礼儀で日頃から残さないようにしているので心苦しかったが、満腹のジェスチャーをして

「シチュム・セール・スット(今はおなかいっぱいになりました)」

とシュグニー語で言い(満腹を意味する「セール」はタジク語=ペルシア語由来で、シュグニー語でも「セール」で良いのか自信が無かったが)、容赦してもらった。申し訳ない。。。

(なお、別の場所では別のパミールの人から「全部食べず誰かのために残しておくのが良い」と言われたりもした。世界中には残す流儀のところも残さない流儀のところもあるが、パミールは結局どっちなのだろうか?)

ファーティマの柱とハサン・フサインの柱の間の奥の壁にはテレビがあり、何かの番組を放送していた。しかし、私は視力があまり良くなく、画面の文字が読み取れない。Rさんも目があまり良くないとのことで、テレビに近づかないと文字が見れないとのことだった。


しばらく時を過ごした後、Rさんらはジャマーアト・ハーナに礼拝に行く必要があるとのことで、家を出ることになった。Rさん、弟さん、友人氏は服を着替え(今までの服との違いは服装に無頓着な私にはよくわからなかったが)、パミール帽を持ち、家を出た。家の庭でRさん、友人氏、私の3人で記念撮影をした。

庭では、今年は水不足で庭では何も育たなかったとのことだった。隣のアフガニスタンで深刻化しているという旱魃の話を思い出した。

Rさん宅の庭にて、Rさんの友人氏、私、Rさん。

タクシーでホログ中心部へと向かい、ジャマーアト・ハーナ入口からチョールボーグを挟んだ反対側でタクシーを降り、Rさんらと別れてキヴェカス・ホテルに戻った。

ホテルでは服の洗濯、荷物の整理等をし、就寝した。

(続き)


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