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【エッセイ】読み捨てられる雑誌のように

四月はちょっぴりセンチメンタルジャーニーである。

先日、某県の某知事が新入職員たちに「毎日野菜を売ったり、牛の世話をする仕事とは違い皆さんは知性が高い」「シンクタンクだ(横文字使うな)」などと宣った。
さすがお役人。意識がお高い。次元というかステージが違う。そして職業差別を意図しての発言ではないと最後まではぐらかした。記者会見で建前は謝罪したが、それも不快な思いをされた方がいらしたらお詫びするという傷口に塩を塗りたぐる言い様。もしかしてとかの問題ではなかろう。言葉の頭に「if」をつけるんじゃない。しかも、しかもだ。謝罪記者会見がなんだか変な方向へ進んでいったのだ。脱線だ。マイクを向ける記者たちも次第に「?」で困惑したに違いない。
リニアモーターカー云々。
こちとら「なんのこと?」である。
話をはぐらかすとはまさにこのこと。
シンクタンクのプライドが素直に謝罪を許さなかったのだろう。
知性が高くない私でもお見通しである。
この某知事、この騒動がなくても辞めるつもりでいたと宣った。いい加減にしなさいである。んなわけなかろう。見苦しいのもここまでくれば見ているこちらが恥ずかしくなる。ほんとに恥ずかしくなってそわそわしてしまう。なんでこっちがそわそわしなきゃならんのだ。
謝罪会見と銘打った中継はリニアモーターカーがどうしたこうしたとだらだら垂れ流されしびれをきらしたテレビ局が途中でスタジオに切り替えた理由だと私は思っている。画面にはキャスターたちが縦皺の険しい(困惑の)表情で立っていた。

私は昨今の不適切に敏感すぎる社会も総叩きする風潮もどうかと思っているのだが、この件に関しては捨て置けなかった。
ということはある不適切が私にはスルーできても今の私のように捨て置けない者には加熱してしまうということなのだろう。

私は「代わりならいくらでもいる」の世界で生きてきた。
そのまま「代わりならいる」と言われたこともあったが言われなくても悲しい哉残った側になった時去っていった者の穴埋めをスムーズに見てきた。あぁ、好き嫌いや相性、情はあっても仕事の駒としては自分でなくてもなんら問題はないのだ。そんなことをどれだけ味わってきただろう。
それが某知事のいう野菜を売る側の接客業だったり、とにかくシンクタンクではない職でしか働いてこなかった。
なのでこの発言はどうしても許せないのだ。
もちろん某知事のいうところの野菜や牛側の仕事が「代わりならいくらでも」だとは思っていない。それらすべての職業にはその人でなくてはというものであることもわかっている。決して認めてなどいない。シンクタンクのそれらだって「代わり」がきくことも「代わり」がきかないこともある。職業でそれらはかわらない。どの世界にも二つは存在している。

そんなことも想像できないエリート街道を一歩も踏み外さず歩んできた勘違いシンクタンクたち。その典型例があの某知事である。この国の腐った部分である。いや、恥部である。だってこんなにも恥ずかしいのだから。
(もちろん民(たみ)に寄り添ってくれる、志をもった役人さんもいる)。

私はこの発言に過敏になっていることに「あ、私は代わりのきかない私でなければいけないことをしたくて生きているんだ(きたんだ)」ということに気がついた。
それが書くことだとは直結させないが、これまでの煮え湯や辛酸が私の心を溶かしたことは間違いない。綺麗事ぬきで自分以外では成り立たない何かを残したいと躍起になっているのだ。なんか少し自分が惨めに思えた。それだけの理由ではないこともわかってる。でもそれも理由のひとつであることも確かだから。馬鹿だな、自分。

某知事のせいで四月はよりセンチメンタルになった。
センチメンタルジャーニーである。
伊代はもう16だから。
山羊はもう本厄だから。
読み捨てられる雑誌のように私のページがめくれるたびに…
放り出されてしまうのかしら?

それは嫌だ。

昔からはじまったばかりなのに終わりのことばかり気になる厄介なこどもだった。
小学生の家族旅行で一泊二日の長野への出発の朝、私は親に「ねぇ?明日の何時に帰れるの?」と出鼻を挫く質問をしていた。これから楽しもうとしている高鳴りに水をさすどころかバケツをぶっかけることをしていた。
悪気など微塵もなかった。旅行があまり得意じゃなかったこともあったが予定を知っていないと落ち着かなかったのだと思う。知ったからといってペース配分するわけでもできるわけでもないのに。変なこどもであった。
後部席の家族が寝ていても助手席に座っていた私は運転をしている父親に申し訳ないと絶対寝なかった。
後にそのことが「変に気を遣うこども」としてこの耳に入るのだが言われても当然な過剰な気を頑なにたてていた。

この荒んだ気持ちは四月の夜桜中継が醜態を露わにさせる。
花見の楽しさがよくわかっていないというのもある。酒も飲めないし、大勢の人の中で、しかも外で食事するストレス。会食恐怖症にはハードルが高い。私は誰もいない静かな場所で地面に落ちた花びらを見ながら団子を食べたい。
毎年恒例の新入社員へのインタビューが自分でも嫌になる変換をしてしまう。

「あとどれくらいもつのだろう」「もう辞めたいと思っているのかな」「3年以内の離職率って…」

こんなことばかり、先に思いついてしまう。
昔家族旅行の出発の朝にいつ帰れるのかを聞いたように。
はじまったばかりの新入社員たち、多くは「新卒」の若者にいつ辞めるのか、いつまで続くのかに思いを馳せてしまう。

きっと、シンクタンク的なまっとうでしっかりして凄いねといわれる白シャツにネクタイの革靴もまだピカピカの彼らに私は嫉妬しているのかもしれない。
だからといって彼らの仕事を一生したいとも思わない。
私にはしたいことがあるのに、なぜそのような意地悪でひねくれた思いを抱くのか。

どうしてって…どうもしない。
某知事の見下し発言がすべての答えである。
根深いものなのである。






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