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母の葬式の後の、メモ(そのまま)

母が死んだ。
お通夜まで駆け抜け、疲れ果てた。
母の死を悼みながら、母のやってきた事の大きさを感じながら、何もわからない自分自身の不甲斐なさと、子供達がいて長女なのに動ききれない自分自身と。本当にひっきりなしにくるたくさんのひとたちの悲しみと、それを受け止めるほどのキャパはない自分自身の大きな悲しみと。(実家は寺だから余計)

夜、妹に負担がかかってて申し訳ない、と思いながら話していると「私は、私のエゴで、末娘頑張ってるなと思われたい。母の葬儀の時、私は頑張ったと思いたい、だから頑張る。兄には寺の仕事がある、姉は孫を見せた、私には何もないから、ここ頑張りたい」と言ってくれて、すうっと胸が落ち着いた。できないできないと思っていたが、子供2人をみながらでは当たり前だと言ってもらえたことで、そして孫を見せられたのはお姉ちゃんの最大の親孝行だと言ってもらって、ああ、もう、いっか。わたしは2人のお母さんであることを最優先しよう、と思ったら急にすうっと楽になった。ちからがぬけた。そして、そんなふうに気負う、まだ20代の妹の気持ちを思うとぐうっとなる。私が、母のかわりに甘えられる存在にならねばと思う。

今日、お葬式。
朝はやかった。6時起き。
はじめてタイマーをかけた、という自堕落ぶりをみせる姉妹であったが、なんとか起きて、喪服を着付けてもらう。あまりにもみんなが母のことよく言うので段々悪口の一つも言ってやりたくなる。叩かれたことも、蹴られたこともあるし、激しい、でも愛情深い、なかなかにファンキーなところもある母だった、という、娘の目線の母。

聞き上手で優しく、明るく、笑顔が素敵なおくりさんだった母。どちらもほんとの母。

母方のおば達がきてくれて助けてくれた。わたしはもう今日はお寺の娘さんスイッチを切って、2人の孫の母である娘であることにした。お寺の娘さん役は、妹にまかせた。

「お別れの言葉」を4歳の娘と一緒に母に言わせてもらえた。一生懸命今を生きること、それが幸せよ、と言われた話をした。泣いてしまう私の隣で、娘もやっばりよくわかっているのか泣いていて、一緒に「ばあば、ありがとう」と言ってくれた。母、絶対喜んでるだろうな。娘もちゃんと、「死ぬ」ということに向き合ってた数日間だったのかなと思う。はなを添える時、大好きなピンクのカーネーションを選んでは母のそばに入れてくれていた。うれしかったとおもう。

火葬場、出棺。
火葬の窯にはいる瞬間耐えられなかった。
1番苦しくなって泣く。

骨になるまでのあいだはなんとなくふわふわと、いろんなところに気を遣いつつ過ごす。妹の彼氏がきていた。すごく頑張っていたし、きてくれたことに男気を感じて好感度があがった、いい子だなあ。「悪口を言わない人がいい」と妹が言っていた。

骨になった母を見る。
骨だ、という、感想。乾燥。からりと骨になっていた。もともと細かった母が、からりという音を立てる骨になる。娘はここで1番怖がっていて、箸渡しはできなかった。


父が心配だから残れたらよいなと思っていたけれど、父から「帰った方がいいぞ」と言われて1人で2人連れて帰る元気が出る気がしなくて終電でへとへとのままに東京に帰る。いま新幹線が新横浜を通って22:57夫も娘も息子も寝ている。

49日もある。その前にお正月で帰る。
だから、いったん帰ろう。父は心配だけれど、わたしもへとへとになっているかも。


気張っていたものが切れて、妹も父もソファーで眠っていた。一滴も涙を流さぬままにいた弟は、ちゃんと母とお別れができたのか、それが少し心配ではある。

帰りの電車に乗る前、タクシーの窓から見た星空が綺麗で、お空に上がっていったのかななんて話したら「じいじもばあばの星をみるといいね」なんて娘が言っていた。

そのあと「私が死んだら悲しい?」なんて言うもんだから、ママは生きていけないよ、なんて、言ってしまいそうになった。パパが死んだら?ママが死んだら?弟は泣くかなあ。いろんなことを、考えている4歳のちいさな女の子。

ばあばはなんで死んだの?
というまっすぐな質問に「病気と闘ってたんだよ」なんて話しながら、どうやって伝えたらいいんだろうと色々考える。

たくさん泣いているところを見せてしまったなあ、と思うけれど。悲しいのは、当たり前だし、しかたないし、人の死は悲しいしやり直せないけど、無くなったりはしないもんなその人がいたということや記憶は、と、思う。


いろんな人に頼りながら生きていこう。
もらった分、私もどこかで誰かに返せたらいいなと思う。

母よ、一生懸命私は今日も生きていく。
みててよね。

#日記 #コラム #エッセイ #ちあきろく #母と娘

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