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思いは私のもの、結果はみんなのもの

酷いことが起こって、酷い目に遭ってる人々を見ると、
何とかして、すぐに、助けたい!
何かできないか!
と言う思いが溢れてくる。
なかなかひどいめに遭ってる人たちの状況が良くならないと、
自分が充分に出来ないことに苛立って、無力感に陥ったり、
助けられる立場にいるのに助けない人に激怒したり、
この世界にうんざりしてしまうこともある。

そして、感じることに疲れて無気力になったりする。
世の中で起こっていることに無関心になっていく。
自分の身近な小さな世界で静かに過ごしていたくなる。

それでも、また苦しんでる人々の記事を見ると、さまざまな感情の下に、不思議に揺るがせない愛があるのを感じる。
自分でもどうしようもない、人類に、世界に、生命に対する愛。
それがなければ、付随して湧いてくる感情を感じなくて済むのに、こればかりはどうしても消し去ってしまうことができない愛。
愛としか言いようがない。

無力感を、怒りを、絶望感を感じたくないから心を閉じてしまうと、
愛を抑圧することになる。たぶん。
無力感を感じないようにすると、愛も感じなくなる。

人間の感情への反応は、
全部感じるか、全部感じないか
の二つの選択肢しかないのかもしれない。

何とか助けたい思い。
出来ることはやれる。
やれることはやればいい。
でも結果は私一人の言動でどうにかなるものではない。

ひとりの人間の力ではどうにもならないこと。
そのことに無力感を感じるのは的外れなのかもしれない。
何とか出来ると思うことは、むしろ傲慢なのかもしれない。
誰であれ、ひとりの人間がそれほどまでの力を持つことは無いようになっているんだと思う。あまりにも危険だから。

大災害は自然、地球、宇宙の動き全体の影響で起こる。
たくさんの人がいっぺんに苦境に陥っている。
人間ひとりで太刀打ちできるものじゃない。
どこか遠くで集団妄想と狂気に駆られた人々が虐殺をしている。
どうしたってそれらの人々を私個人で説得して正気に戻して、虐殺を止めることは出来ないだろう。

それでも、何とかしたい、と言う思いが出てきて辛くなる。
何とかしたい!の思いに従属して湧いてくる辛い感情は、
自分の認識が間違っているから発生するものが混ざっている。

個人が惨事全体を解決できないのは当然だから、無力感を感じてる必要はない。そんなことで落ち込むより、小さくても出来ることをやった方がいい。
小さなことしかできなくて、不満足でイライラするより、
何とかしたいと言う思いが湧き出る自分をキチンと守った方がいい。

それが湧き出なくなった人々が、助けられる立場にあるのに見殺しにしたり、利用して搾取したり、虐殺をするようになるのだ。
そう言う人たちは、もしかしたらあまりにも辛い体験をして、心を閉じてしまったのかもしれない。
それを癒せないまま、怒りや恨みをつのらせて、他者にそれを償わせることしか望まなくなってしまったのかもしれない。

そうなっていく道を選ばないためにも、心を閉じない。
ただ自分の中に、見ず知らずの人たちであっても苦しんでいるなら助けたいと言う『思い』があることをしっかりと身体に浸透させていく。
それは、愛であり、思いやりだから。

大きな局面で起こっていることは、たくさんの人々の思考・言動に左右される。人類全体の集合無意識に左右される。

その集合無意識の中の一人分の思いにだけは、自分で責任がとれる。
みんなで助け合って生きていくと言う意思があるか、無いか。

みんなで助け合って生きていくと言う意思のある人々が多ければ、世界はそのような方向へ進んでいく。
それ以外の意思、他者を犠牲にしても我欲を満たしたいだけの人々が多ければ、人間の社会は消滅へ向かう。それはどう考えてもそうならざるを得ない。

そんな風に、今は感じている。
だから、世界がどうなっていくのか見ていようと思う。
狂った加害者には哀れみを。
心ある人たちに、心を寄せて生きていく。





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