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作品が成立するために必要なもの ミハイル・バフチン「美的活動における作者と主人公」

生きていると、詩を感じることがある。ふとした時に。誰にでもあると思う。現代詩作家の荒川洋治の作品「渡世」には、詩について、こんなことが書かれている。

ぼくは子供のころ
言葉の前にたったとき
葉鞘のひと揺れ
土のひとくれ
人のよつすみに
詩がある、それをつかめる
と感じた
だがそれはあくまで詩のようなものであり
詩ではない
別のものだ
詩は一編のかたちをした
文字の現実のつらなりのなかにしか存在しない

荒川洋治『渡世』
「渡世」より

「詩」と「詩のようなもの」がある。人はこのふたつを取り違える。感じたことは「詩」ではないのだ。しかし、それでは詩はいつ詩になるのか?

20世紀ロシアを代表する哲学者であるミハイル・バフチンに「美的活動における作者と主人公」という草稿がある。これは芸術作品における作者と主人公の関係を美学の観点から論じたもので、バフチンによれば、芸術作品が成立する条件は「外在性」であるという。

外在性とは、作品のなかに登場する主人公の生を、作り手である作者がその生の外に立って再構築する関係を指す。これだけ読むと当たり前のことが書かれているように思うかもしれない。しかし、大事なのは次の点である。

美的なできごとは、二人の参加者があって初めて実現するのであり、二つの一致することのない意識が前提となる

ミハイル・バフチン『ミハイル・バフチン全著作 第一巻』
「美的活動における作者と主人公(一九二〇-二四年)」 / 佐々木寛訳 より

主人公はあくまで主人公の属する世界に生き、作者は作者の世界を生きる。主人公に対する他者の立場に立ってこそ、作品は芸術作品になりうるというのだ。

この主張には人間の生の在り方が密接に関わっている。人間の認識には時空間的な限界がある。空間から説明しよう。バフチンの考えでは、人間は主観的な立場において、自分の外貌や自分のいる背景を把握することはできない。なぜなら主観が世界に参加する在り方は、世界外的であるからだ。例えば、テニスなどのスポーツをしているときに、プレイヤーは手の動きや足の動きをイメージできても、その実際の動きや自分を含めた空間を直接見ることはできない。さらにいえば、プレイヤーはあくまでゲームに勝つために身体の動きや位置関係を把握しているだけで、全体的な把握とは異なる。それができるのは、観客の立場だけである。観客はゲームの外に立ち、プレイヤーのすべてを把握できる。スーパープレイの美しさを見られるのも観客だけだ。もしプレイヤーが自分のプレイを見たい場合は、撮影されたリプレイを見るしかないが、その時点でプレイヤーはゲームの外に立っていることになる。つまり、主体が全一的に物事を把握するには、他者の視点を借りなければならないのである。主観において、知りえないという限界が露呈する。

時間についても同じ限界を抱えている。人間の生は、原理的に未来に向かって開かれている。生きている間は、あらゆることが進行中であり、死によってはじめて人間の生は閉じられる。つまり、人間の生は未完結なのである。だから、塞翁が馬ということばがあるように、いまやっていることが悪い結果であっても、数年後にはプラスの働きをし、良い結果の要因になるかもしれない。評価を下すには、未来がない状態、完結した状態が必要になる。これは進行中の生とは相容れない。そのため、自分の人生を評価するには、自分の生から一時的に離れ、これまでの人生を俯瞰できる他者の位置に立つほかないのである。

以上のように、人間の主観には限界がある。主人公が置かれている立場とは、この主観的な立場である。だから、この主観のもつ限界を克服するために作者が必要だと、バフチンは考える。作者が主人公の生の外に立ち、主人公の生を完結させ、作品にする。バフチンによれば、この限界を補うことなしに、美的なできごとは生まれないし、この補う意識こそが美的活動であるとさえいう。

主人公の生を作者が他者として眺め、作品として再構成することで芸術作品になる。これは詩にも当てはまる。主観に留まる限り、どんなに詩を感じても、それは「詩のようなもの」でしかない。「詩のようなもの」を他者の視点から「詩」として編み直さなければならない。

荒川洋治の「渡世」には続きがある。

お尻にさわる
いい言葉だ
日本が残すことのできる言葉は
これくらい
しか
ないだろう
というところに来た
それは言葉がすべてあまさず
そこにあるもの見えるものだけにくっつく
よろこびを知りそこに憩ってしまったからだ
このあまりの静けさ、掩蔽感は
だが
この世の
誰の顔にも似ていない

荒川洋治『渡世』
「渡世」より

引用しなかったが、前節で「お尻にさわる」という言葉は「その力のなさにおいて/輝く」ものとして評価されている。この「お尻にさわる」が「詩」のことばであるとすれば、目の前のものを描写するだけのことばは「詩のようなもの」であるといえるだろう。そして、そういったことばは「この世の/誰の顔にも似ていない」。「詩のようなもの」は、結局詩だけがつかまえられるものを、捉えそこなった表現である。わたしの心が動いた、感動した。これだけではダメなのだ。「詩のようなもの」を、他者が見て、触れられる世界のことばに作り直して、はじめて「詩のようなもの」は「詩」になる。


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