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信頼できる人の発言内容が信用できるとは限らない

信頼と信用の区別

【信頼】ある人や物を高く評価して、すべて任せられるという気持ちをいだくこと。
【信用】人の言動や物事を間違いないとして、受け入れること。
出典:三省堂「スーパー大辞林3.0」

SNSでの論争や批判を見ると、信頼と信用を混同しているように思うことがよくあります。そうであるが故に、意見が対立しているとも感じます。

人間、誰でも間違えることはあります。私も信頼できる人はいますが、その人の発言内容が必ず正しいと信用しているわけではありません。必ず正しいと信じると最早信仰になりますが、判断をその人に委ねることで、責任までその人に転嫁することになってしまいます。

信頼の適用範囲

例えば、ある信頼できる人がSNSで発信していても、「いいね」をする時としない時があります。価値観までその人と完全一致はしませんし、特定の話題に関してのみ信頼できるという場合もあるからです(経営者としては信頼できるが、政治家としては信頼できないとか)。

信用の対象は人自身か発言内容か

一方、ある人そのものを信用しすぎると、その人が言っていることはすべて正しいという主張に繋がります。同時に、反論を唱える人を「敵」とみなして攻撃してしまう場合もあると思います。

逆に、ある人そのものを信用できないと言って、その人が言っていることはすべて間違っていると断定しているような書き込みも、SNSで目にします。集団リンチにしないためには、人そのものではなく発言内容について論理的な指摘をする必要があると思います。

信頼の必要性

冒頭で紹介したように、信用とは「人の言動や物事を間違いないとして、受け入れること」です。

間違いないと判断するには、知識や経験が必要です。そのため、子どもにとって何かを信用するというのは難しく、安易に何かを信用すると盲目的になる危険性があります。新興宗教や陰謀論、テロリズムなどは、何かを徹底的に信用することで初めて成立すると思います。知識や経験に基づいて判断を下せるようになる前に関わるべきではありません。

そのため、子どもには(大人もですが)信用できる人がいなくても構わないと思います。しかし、信頼できる人は必要だと思います。結果的に間違える可能性もあるけれど、それを承知ですべて任せられる(信頼できる)人がいれば、判断を委ねつつも責任は自分で負えるはずです。

終わりに

私自身、20代の頃は世間や社会というざっくりしたものを純粋に「信用」していたために、その反動で「失望」した経験があります。根拠もなく勝手に期待しすぎてしまったせいだと、今では反省しています。

30代になった今では、人を信用することはやめました。それでも、信頼できる人は周りにたくさんいます。信用と信頼の区別ができるようになってからは、気持ちが楽になったと感じています。

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