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オザワ、オッザーワ!

初めてのイタリアは、ひとり旅だった。
目的地はミラノ。

長く付き合っていた当時のパートナーは料理人で、ある日突然「修業のためにイタリアに行く」「現地でがんばって基盤をつくるので、そのときは来てほしい」と言いだし、本当に行ってしまったのがその前年の出来事だ。

私はとても腹が立っていた。

渡欧を考えていることの相談すらなかった。
しかも、その頃の私は社会人3年目。ようやく裁量も増え、楽しく働いていたところに「来てほしい」って、随分かんたんに言うもんだな、と。
なんで勝手に、私が仕事を辞める前提のプラン立ててるわけ?

ここまでが全怒りの20%だとすれば、残りの80%はふたりで犬を飼っていたことにつきる。
事前に話し合ったうえで、終生きちんと面倒を看よう、と「生命ある存在」を迎えたというのに。私の目には、彼がその責任をあっさりと放棄したように映っていた。

1年ほど遠距離恋愛をやってみたものの、うまくいかずに一応「別れた」ことになっていた。しかし、どうもスッキリしないので、一度行ってみようと思い立ったわけだ。

せっかくの海外旅行だというのに、気分にどこか雲がかかっている。
もんやりとした思いを抱え、マルペンサ空港からひとりでタクシー乗り場に向かった。

あいにくイタリア語はさっぱり喋れない。
運転手のオジちゃんに英語で話しかけてみるものの、
「ノーノー、ノーイングリーッシュ」
と眉をひそめ、指をチッチッと揺らされた。

このくらいは想定内である。
あらかじめ用意していた住所のメモを見せると、彼はこくんとうなずき、「乗れ」とばかりに手のひらで合図をしてきた。

イタリア人は人懐っこい、とは聞いたことがあった。
たしかにこのオジちゃんも、最初は「ノー」とか難しい顔で言っていたクセに、今度は私が何度「ノン イタリアーノ!」とカタコトで伝えても、まったくお構いなしにイタリア語で話しかけてくる。

「ジャッポネーゼ?」
 あ、それは分かる。
「シ、シ。ジャポネーゼ」

そう言ったが最後、オジちゃんはどこが会話の切れ目か分からないくらい、さらにベラベラと話をし始めた。
なにひとつ理解できなくて、いっそ清々しい。外国に来たって感じがする。

オジちゃんはバックミラー越しに私の「?」という顔を見て、「困ったな」といった様子で、かぶっていたツイードのキャスケットをグシャグシャっと前後に動かした。

すると突然、マンガばりの「閃いた!」という動きをして、サイドボードをごそごそ探ると、一枚のCDを取り出した。そして、運転中にも関わらずほぼ180度、後ろをがっつり振り向いて、CDをぐいっとこちらに差し出し、言った。

「オザワ、オッザーワ!」

CDのジャケットに風景の絵が描いてあるのは分かる。
でも、運転手が後ろを向いてるのが怖すぎて、文字を落ち着いて読む余裕がない。頼れるのは耳のみだ。

おざわ…おっざーわ?
おざわ……
世界の小澤……小澤征爾じゃない!?

「ジャポネーゼ マエストロ?」

私が指揮者の身振りをしながらそう声を上げると、オジちゃんは「やっと伝わった!」と言わんばかりに胸に片手を当て、ニコッと笑った。
サイドボードの中には、クラシックだろうCDがいっぱい詰まっていた。

その後も話しかけられる言葉の意味はちっとも分からなかったけど、その身振りや語りかけてくる表情、合間合間に聞こえる「オザーワ」という単語から、「オザワはいい!」と言ってくれている感じがぐいぐいと伝わってきて、なんだかとっても嬉しくなった。

異国の乗客と通じ合う部分があり、向こうも嬉しかったのかもしれない。
オジちゃんはついにハンドルから両手を離し(いま、高速に乗ってる)、さっきのCDケースを開けて「オザーワ」のCDをプレイヤーに差し込んだ。

そして、流れてきたメロディと一緒に高らかにハミングを始めた。
彼はもう、話しかけてはこなかった。
私はその楽しそうなハミングを聴きながら、高速を降り、風景が街のそれに変わるのを見ていた。

目的地に到着後、オジちゃんは私のトランクを建物の前まで丁寧に運び、「チャオ!」と言って走り去った。遠ざかるタクシーと共鳴するように、私の心にかかったモヤも消えていった。

*****

わざわざイタリアまで来た甲斐あって、付き合っていた人に会ったら「うん、もう別れて前に進もう」と気持ちがスッキリした。
しかもそのときミラノに滞在した経験が、後年、仕事で来る機会を得たときに役に立ったのだから、人生はうまくできている。

さらに言えば、あのとき彼が置いていった犬は、18年の天寿をまっとうした。最後を一緒に看取ってくれたのは、現在のダンナだ。

私がミラノといってまず頭に浮かぶのは、元彼でも観光でもない。
今も「オッザーワ!」の思い出だ。

2024.2.6.
小澤征爾さんの訃報に接し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


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