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ピロスマニ

昨日は岩波ホール、ジョージア映画祭。ピロスマニ。観ておきたくて観に行った。多分殆ど、変わっていなかった岩波ホール。

sur reelの技法について。現実を表面からなぞり、視えてくるもの。絵だけを残して、流れるように生きていった画家。ドラマティックとは真逆の画面に、うとうととしそうになると、画面ではいつも、ピロスマニが土埃の乾いた町並みをただその人独特の歩き方、その人のペースで歩いているのだった。

人はどこまで内面というものを、知ることができるだろうか。誰かの人生というものを。内面の声はとめどないが、表向きの世界は、いつもどこか穏やかだ。そんなふうにきっと、みえてしまうものだ。それは今も、変わらないのかもしれない。

人生の内面に触れず、表面だけをなぞるような、ピロスマニの絵の手法をさらになぞるように撮られたように見えるこの映画を見ていると、それはやっぱりピロスマニの人生そのもののようで、sur reelでもなく、もしかしたらピロスマニにとって、人生はそんなふうだったのかもしれない。

生きる日々の糧に換えて絵を描き、それ以上を望まなかったこと。流れるように生きたこと。生きる糧として絵を描いたこと。それはじつはやっぱり、この画家がその人生と引き換えに絵を描き続けた、ということになるのだろう。質素なその人生は、敬虔さとも少し異なる、どこか風のように流れていく信仰心のようでもある。人物皆が写真のようにこちらを向くピロスマニの絵が、素朴な宗教画とどこか似たものであるように。

そんなピロスマニの絵を、目の前に見てみたい、と思う。


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