セトウツミ

「サイトウアキコが落ち込んでいる」という情報が巷に溢れているらしい、というのは大げさで、多くの友人の耳にその噂が届いているらしい。

わたくしといえば至って元気で、ご飯もちゃんと食べてるし、夜も寝てるし、朝もちゃんと起きてる。ダメージなんかなんにもないぜ。そうやって表向きは元気に生きていたのだが、油断すると悲しい気持ちが襲って来るので、寝しなにこっそり泣くなどしていた。

そんなある日の夜中2時頃、サイトウアキコが元気ない説を聞いたという友人から突然メッセージが届いた。そこには

「今お前に必要なのはセトウツミだ。セトウツミを全巻買って読め」

と書いてあった。セトウツミってなんやねん。そう思ってぐぐったら、それは此元和津也さんという方が描いた漫画だった。

「この川で暇をつぶすだけのそんな青春があってもええんちゃうか」。 まったりゆったりしゃべるだけ。

そんなコピーが書いてあった。日常漫画はわたしも大好きだ。きっと「面白いから元気出るぜ」ってことなんだろうとピンときたので、「ハイハイ」と返事をした。すると友人は

「絶対全巻読めよ!全巻だぞ!全部!」

とさらに念押しをしてくるのである。8巻あるじゃん!まあ最初読んで面白くなかったらやめればいいや...と思って、翌日、とりあえずkindleで買ってみた。

「セトウツミ」の主人公は二人の高校生。右がセトで左がウツミ。セトは元サッカー部でド天然のバカ。もう一方のウツミは毎日塾通いをしている成績優秀の秀才。真逆の二人だが、セトはサッカー部を辞めて暇、ウツミは塾が始まるまで暇、ということで、放課後いつもの川べりに腰掛けてそれはそれはくだらない話をするのだった。

この話がまた

すげーーーーーーくだらない。

関西のキレッキレの若手の漫才がコマ割りされて散りばめられている感じ。

YouTubeの動画見てゲラゲラ笑っちゃう感じが紙面に漫画というかたちで詰まっている。

あんまり面白かったので、結局全巻買って読んだ。

「母ちゃん、3分ぐらい無言のあと「またかけます」っていう留守電すんのやめてくれへん?ボーナストラックかなって思うから

「ジャーナリズムが俺の前を歩いてるからもうちょっと歩幅合わせていこ」

「お前寝不足のOLのファンデーションよりノリが悪いな」
「お前京都の老舗店より閉鎖的やな」

「今はサッカーもやめて変わり果てた姿になったけど」
「遺体みたいに言うやん」
「で高校で再会できたけどわたしほら喋られへんから結局無言の帰宅で」
「遺体みたいに言うやん」
「ご覧の通りわたしの損傷も激しいし」
「遺体みたいに言うやん」

「どうしたんモディリアーニみたいな顔して」
「聞いてられへんわ」
「たぶんモディリアーニのモデルの人もモディリアーニの話聞いてられへんかったんやと思うわ」

「できれば親指使ってミュートして」
「お前自身が親指で全世界をミュートするんじゃなくて」

などなど、数え上げればキリがないくらいの面白問答が繰り広げられる。英語のテストで出た「ディスタンス」を「このタンス」と訳してしまうくらいのバカ・セトと、成績優秀な上に、ギターでも何でも器用にできてしまうウツミ。大道芸ができないのに服装だけは立派なバルーンマンやまちなかを徘徊し続けるセトのおじいちゃん、セトに片思いしているハツ美などなどの個性的な登場人物とともに、ボケとツッコミが乱れあい、流れるように物語は進んでいく。


だが最終巻。代わり映えのしない日常に、ある仕掛けがかけられていたことがわかる。ああ、そういえば、そんな予感がないことはなかった。その悪い予感の片鱗は、7巻にわたって、日常のなかに、注意深く注意深く仕込まれていたのだった。

そして誰も気づかなかったその呪いを解いたのは、いつもはIQゼロのバカ発言を繰り広げているセトだった。どうやったらこんな複雑な問題を、何食わぬ顔をして解決するなんてことが成し遂げられるのか?考えられない。普通の人には絶対無理だ。普段のバカっぷりとの対比もあって、その勇姿に読者は惚れ惚れとさせられるのだった。

「冬休みにユニバーサル・スタジオ・ジェーピー行ってきてん」
「どこ略しとんねん」

そしてわたしは友人に報告した。

「読んだ!面白かったよー」

すると友人は

「ちゃんと全巻読んだ?」

とダメ押ししてきた。この最後の仕掛けは、映画版とかではカットされているらしく、友人はセトがスーパーヒーローのように活躍するところをわたしに見てもらいたかったようだった。わたしは友人に

「全部読んだよ!いやーすごいもん見せてもらったわ」

と伝えた。

すると、友人は

「セトってスーパースターだよなー」

と言うのである。

「ほんとだね、スーパースターだね」

とうなずくと、友人は

「お前も普段、セトみたいに無自覚に人を救ってるから元気出せ」

と返してきた。

そして巨大ないいねの後に、

「スーパースターやで!」

と続けるのだった。

わたしはただ気分転換になりそうな面白い漫画を紹介されたのではなかった。友人は20時間ぐらいかけて、わたしを壮大に励ましてくれていたのだった。

ああなんていうことをしてくれるんだと思って、めちゃくちゃ感動して泣いた。今書いていても眼から涙が溢れてくる。

この涙は嬉しいからなのか悲しいからのか、なんなんだかわからないのに止まらない。「本当に元気になってほしいと思っているんだろうなあ」とか「気にかけてくれてるんだなあ」とか思うと、勝手に喉の奥が痛くなって、両目から涙がボロボロ出てくる。

そんなことを言ってもらえるわたしといえば、かなりの怠け者だし、バカだし、大して人の役にも立っていない。こんなことを言ってくれる人がいるなんて、あまりにも勿体ないことだった。友人の心の器の大きさに驚いたし、真実の優しさとは何かということを知った。悲しいことがあったとか言って、小さなことでぐだぐだくだくだめそめそめそめそして、本当にバカみたいだった。

こんなに素晴らしい心を持っている友人がいるってことを知ることができた。わたしは本当にうれしい。どしゃぶりの雨がやんで、虹が差し込むようだった。心の傷は魔法みたいに消えていた。そしてわたしはもう、心の底から元気である。

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