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本音と意識と成長

〈本音を言うこと〉と〈本音を言わないこと〉は、
どちらが良い悪いではないと思ってます。

それは、自分のおかれている状況、相手の状況、周囲の状況によって自分が選択を重ねていくものじゃないですか。

自分の〈本音を言う〉ことがどんな影響を与えるか、それを自分が責任を持つという前提で、
言葉をoutputするか否か、つまり、放つか放たぬままいるかを選択してます。

本音を言うことで相手も周りも幸せになるなら、最高ですよね。迷わず言います。
それは何も考えることはない。

でも、本音を言うことで相手を不用意に傷つけることがあります。
ただ、言わねば自分の首を絞めることがあります。

わたしが大切にしているのは、
自分を含めた全体が幸せになること。
今から未来を見通し、幸せになる方向性であること。

価値観、見えかたは人によって違います。
同じ場面をきりとっても、感じることはバラバラのため人に判断を聞いても自分の本音から離れてしまうから、余計答えを探して迷っちゃう。
本音が観えなくなっちゃうんです。
それは元も子もなくなります。
自分を含めた選択をしたくても、できなくなってしまうから。

その場面に存在する自分が、自分と他者、その周囲を含む全体性で考えて選択していってるんだと感じてます。
これは、考えているというより、決めた方向性に向かう選択を自分がするという感じなんです。

意識のなかに自分を含まないで決めると、全て相手次第になって、犠牲的に自分を傷つけてしまいがちです。
一方では、相手や周りを含まず自分のためだけになれば、ただの自己中心的なもので、幼児と同じですね。

すべてのものに表裏あること、自分が創っている世界であり、相手の感情はコントロールできないことを前提にしながら、意識を拡大して全体のバランスを観るようにすること、それが今のわたしが意識していることです。

できるかどうかではなく、その時自分にできる最善を尽くす。
時間が必要ならゆっくりでもいい。
考えるな行動だとか言われても、考えてもいい。
その時の自分にできる最大限をする。
それが自分への敬意であり、相手への敬意かと思っています。


自分の本音を確認した上で、伝えるという行動に出すかどうかは、全体性をみて決めたことに向かって、
最初の行動にうつしたなら、その反応や状況を見ながら何度も何度も〈本音を言うか否か〉に加えて〈言うなら、どこまでどのように〉〈言わぬならその本音を自分のなかでどう捉えるか〉の選択をくり返しています。

それはもう、決めたら自分の感覚を信じるだけなんですよね。
そのときそのときの自分の感覚をひろい、別視点で観る自分が選択するようなものです。

完璧なんてありません。

気づけば自分を傷つけるような感情にうもれそうになることもあります。
相手は傷ついたと感じることもあるでしょうし。

完璧なんて目指さないけど、そんな自分に気付きバランスをとる意識は持ち続けています。

自分だって完璧じゃない。へなちょこなやつです。
諦めるんじゃくて、今のへなちょこさを認めながら、人とかかわりながら成長を重ねていくもんだと思うんです。


とくに子供やパートナー、親とはぶつかり不安になったり、癒され安心したり、、、
濃厚なかかわりをしていかざるを得なくて、目の前のことにひとつひとつぶつかっていけば、自分という存在にかかっている霧が少しずつはれていきました。

観えにくいけれど、チラチラ観える〈純粋な自分〉を受け入れる過程を積み重ねることで、自分との繋がりを深めるんです。

小さな家族というコミュニティでのぶつかり合いや慈愛、感謝は自分の意識の成長を加速させ社会に意識を拡大していくための土台になると思っています。

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