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#6 海部公子という生き方

 おでん屋をきっかけに硲伊之助と出会った海部さんは、三鷹にある硲の家に通うようになり、絵描きの仕事へ関心を深めていきます。すでに硲はこの頃、陶芸に目覚め、石川県小松市の初代徳田八十吉の元に絵付けを習いに通っていました。海部さんは渋谷のおでん屋の後、高円寺、新橋でも飲み屋を経営しながら、硲、そして絵との距離を徐々に縮めていきます。

新聞連載の挿絵のモデルになった

 硲先生の三鷹の家では、疑問があれば何でも質問していました。そういう空気をつくってくれていたみたいです。モデルにしょっちゅうさせられましたね。新聞の挿絵を引き受けて毎日描いていましたから。特にそれでどうということはなかったけど、邪魔になるのは嫌だったから、「間に合うなら」とうれしかったですね。モデルは文学座の女優さんにも頼んでしょっちゅう来てもらっていたし、芸大の教え子も訪ねてきたら必ず登場人物の一人にさせられていましたね。「(文芸プロダクション)にんじんくらぶ」の岸恵子さんと一緒にいた小園蓉子さんとか、杉田弘子さんとか、いろんな人が来ていましたよ。

 先生はつくりものが嫌いで、絶対に写生するんです。だから「大菩薩峠」(※中里介山の長編小説、新聞連載)の挿絵を書いていた石井鶴三という人が中里介山とけんかして、途中でやめちゃって、挿絵書く人に困って探してたらしいのね。それで先生が頼まれたんだけど、剣士が登場する時代劇の話だから困ったと思ったらしいのよ。それでも引き受けて、そのときも剣道の名士を写生したんです。そしたら先生が「ちゃんと隅々まで見てる人がいるんだね。困った」って言うんです。前の日はちゃんとちょんまげ結ってるのに、オールバックのまんま掲載された日があったようで。「今日のはなんでオールバックなんだ」って投書が来たらしいです。それくらい実物に忠実だったんです、先生は。

 新劇の女優さんはちゃんとしていて、「こういう役やって」と言うと、ちゃんとやってくれていましたね。だから原稿が来ないと書けないわけよ。芹沢光治良さんの小説の挿絵もやってて、伊豆半島のどこかの町が出てきて、どこの四つ角に何があってとかも書いてある場面があったんです。そしたらそこまで行って、でもどうしてもその場所が見つからなくて、本人に電話したそうですよ。そしたら「申し訳ない。あれは実は虚構なんです」って言われて。それで頭抱えて帰ってきたこともあったそうです。丹羽文雄の「包丁」とか「恋文」とかね。通算10人近くの新聞連載の挿絵を描いたんじゃないでしょうか。作家の方はすごいぎりぎりしか原稿くれなくて、大変だったようですよ。

 絵描きの生活の大変さというのが、硲先生の生活から伝わってきましたね。本人の真摯な、いちずな生活も、生活の苦しさ、圧迫感を膨らませていた気がしますね。甘んじていくとか、名声に乗っかっていくとか、そういうのが全くない人でした。

 硲先生の家に行くのはひと月にいっぺんくらいです。実際はそのくらいです。生活を共にするようになるまでに16歳の時から4年間ありました。三鷹の家は天文台の近くで、谷間の崖に降りていくようなところで、崖の上からは平野になってる部分が見渡せるところもあるけど、覆い繁ってる木で何があるかわからないような、そこを降りていくと木立の中に平屋建ての日本家屋があって。その周りをうっそうとした森に囲まれていました。先生の家の南側には池を挟んでちょっと建物が見えて、それは精神病院なんだと言っていましたね。

 先生はそのころ60歳ちょうどくらいです。本当にご隠居さんの寓居のような感じでした。そこへ移ってそんなにたってなかったんじゃないかな。油絵なんか描けるような場所がない家でしたから。

東京で窯を作ることを考えていた

 先生は私が知り合った時には陶芸を始めて10年くらいたっていました。だからその広い庭で窯を作って、焼き物をやることを考えていたようです。魯山人が雇ってた窯たき職人が訪ねてきて、計画が話されてるのに同席したことがあります。「えー、先生ここで始めるのかな。大変なことを考えてるんだな」と思っていました。

 先生は焼き物を始めてから初代徳田八十吉(石川県小松市の九谷焼作家、人間国宝)さんと親交が生まれて、八十吉翁の人柄に惚れたみたい。小松に通っていました。私は20歳で先生と暮らすようになって2年くらいたって、小松に出掛ける際についていくようになったんです。そのときは初代八十吉さんは既に亡くなっていましたが。先生はしょっちゅう小松に行っていましたけど、私を無理に誘うようなことはなかったですよ。焼き物に一生懸命になっているのは感じていましたし、どうしても行かなきゃいけないという場所が石川県でした。年に2~3回行ってるのを見たり聞いたりしていました。

 それを手伝うような形になったんです。私は車の免許を取って、先生と生活するようになっていましたから。私が石川県に初めて来たのは1960年ころだと思います。

 先生が「三鷹から都心に引っ越したい」と言って、私と弟が住んでた麻布の家の裏に引っ越してきたことがありました。ただそこでは1年くらい。世田谷の多摩川沿いに明治の日本画家が住んでいた日本家屋のアトリエが見つかって、そこへ引っ越しを手伝いました。そこで一緒に暮らすようになったのが、先生との生活の本格的な始まりですね。大きな家だったんです。その頃、私は20歳になっていました。

 短い期間ですけど、渋谷のおでん屋を辞めてから、高円寺や新橋で水商売と言われるスタンドのお店をやっていました。人に使われるのが嫌で、自分で家賃を払ってやっていました。高円寺は共同経営で嫌な思いをしたので、新橋は一人でね。新橋の店の二階には夏目漱石の親戚関係の人が「夏目」というバーをやっていました。いろんな人が出入りする飲んべえ横町のような場所でした。19歳を満了して店を辞めて、先生と多摩川沿いの民家、世田谷の岡本町と言いましたが、書院造りの200坪くらいの豪邸、その離れを借りて、先生を手伝って共同作業するようになったんです。それで石川県に一緒についてくるようにもなったんです。

 新橋のスタンドはまた違う人たちが現れて、石井立さん(筑摩書房の編集者)と知り合いになったのはそこですね。大岡信さん(詩人、評論家)は毎日のように来ていました。大岡さんはここへも3度くらい来ています。劇団とか新聞社関係とか、出版も。毎日新聞や筑摩書房の人が来たり、草野心平さんもみえました。「アカシヤの大連」という小説を書いた清岡卓行さんもしょっちゅう来ていました。魯迅の「祝福」という作品が映画化されて、清岡さんに試写会に誘われて行きました。すごい内容で泣きながら帰ってきたのを覚えています。

 銀座にもう少し大きい店舗があるからやらないかという話もあったんだけど、果たしてその世界が自分に合ってるのかもわからないし。新橋の時は先生がすごく心配していました。麻布の本村町に弟と住んでいたころは石膏を自宅に置いて、週に1、2回デッサンを見てもらっていました。それでだんだんと接近する気持ちが強まったような気がしますね。

国内初のゴッホ展。ポスターを喜んで持ってきた

 先生もゴッホ展(1958年、東京国立博物館など)を実現させた時はすごく喜んで、そのポスターを持ってきてくれました。国内初のゴッホ展です。先生はゴッホの手紙を翻訳していたので、知り合ってすぐに上巻を出して読ませてもらいました。ゴッホの生涯のあらましがそれでつかめました。先生は中巻も下巻も引き受けていて、それを成し遂げないといけないというので、ここにも持ってきてやっていました。収入になる仕事ではないのですが、でも今は絶版にならずに続いてるんですよね。岩波文庫でね。

 これは井上ひさしさんが絶賛していました。文章に残しておいてくれたらよかったんですが。1年に1000部ちょっと売れてるようですが、長く続いてることを評価していました。井上さんが生きてくださっていたら、どんなに力になってくださったかなと思います。先生が生きてる時は井上さんと知り合っていないですからね。(続く)

(硲伊之助の弟子であり、夫の硲紘一さん)

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