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【side B】わかり過ぎて読めない言葉の代わりに

「19年ぶりに日本語を読みました」

Facebookのメッセンジャーに、メッセージが届いた。

メッセージの送り主は、私のWebでの文章を読んでくれたイギリス在住の人だった。

丁寧な感想を頂き、出版している2冊の本が電子書籍化していないかどうかを聞かれた。私の本は残念ながら電子書籍化していない。その旨と、現在もweb上で読める過去の連載や単発コラムのURLを伝えた。もっとあなたの文章を読みたい、と言われることは、やはり、いつだって嬉しい。

クローズドではないインターネット上でものを書くことを始めたのは2008年。1冊目の本を出した後だ。TwitterのリプライやFacebookのメッセンジャー、ブログのメールツールなどに、時に見知らぬ人からのメッセージが舞い込む。特にそれを嫌だと思ったことはない。インターネット上で会った人も、顔を合わせた相手でも一緒だと思う。インターネット上であろうと、大人数の飲み会やパーティだろうと、初対面の相手に失礼な人は失礼だし、そうではない人は違うというだけだ。

「イギリス在住のNと申します。あなたの連載で19年ぶりに日本語を読みました」

彼はイギリスの、国外どころか国内の人間も知らないような小さな村に住んでいるという。私も現在、日本の中ではとても人口が少なく中心部から距離がある離島に住んでいる。だが、イギリスで人口200人も満たない村に住むというのは、なかなか想像がつかなかった。そして、そんなに遠くに住んでいる人が、連載を読んでくれるなんてなおのこと嬉しかった。感想に対する感謝と、彼が住んでいる村への質問を書いてメッセージを送る。

それから、時折、メッセージをやりとりするようになった。

不思議と彼は、私の気持ちが沈んでいる時に連絡をくれた。

それも、唐突に、一枚の写真を送るという形で。

海を走る犬の写真、野原いっぱいに広がる菜の花の写真。

言葉はひとつもない。

その写真には、押しつけがましさのかけらもなく、ああ、この人はこんなきれいな景色の中にいるんだな、そしてそれを私にふと送りたくなったんだな、と、すっと風が吹いたように軽く、ほのかにふわりと暖かく、感じられるようなものだった。

私も、時折、写真を返した。東京に行った時に撮った皇居の菖蒲や木漏れ日などだ。

現在、私が住んでいる加計呂麻島の写真はどうしても南国の風景になる。それよりも、日本らしい景色の方が良いような気がした。彼が、19年、日本語を読んでもいないのなら。

メッセージのやりとりで、村上春樹の話になったことがある。

彼は村上春樹を読んだことがないそうで、一番最初に読むなら何が良いのかを尋ねられた

私が一番好きなのは『ねじまき鳥クロニクル』だけれど、大長編なので最初なら短編が良いかもしれない、と答えた。すると、彼は、英語で出ているものを探して読むという。

彼は英語も日本語も、不自由ないはずだ。不思議に思い、聞いた。

「日本人の小説でも、英訳されたものを読むの?」

「はい、そっちの方が落ち着くから」

19年ぶりに日本語を読んだ。私の連載に対する言葉から思考を巡らせた。私は、そっと、聞いた。

「日本語だと、わかり過ぎて、痛い?」

「そうですね」

少し間があって、もう一度メッセージが届く。

「うん、そう」

その言葉で、互いのやりとりの意味を確かめ合ったような気がした。

日本の景色を送りたいと思った私の気持ちも、彼が写真を私にふと送る理由も、きっと。

わかり過ぎて読めない言葉の代わりに。

彼は、イギリスの辺境の地に住んでいる。私は、日本の中でも海外よりも遠いと言われている島にいる。私達が顔を合わせることは、一生ない可能性の方が高い。

会おうと思えば、もちろん会える。けれど、会うのもいいけれど、会わなくてもいいとも思う。

私はきれいな場所にいるよ。どうか、あなたもきれいな場所にいて。

ただそれだけのやりとりが、きっと、本当はすべて。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。