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【side B】小指と薬指をなくした男の子は

背もたれに持たれて深く座ると私では足が届かないソファは完全に男のためのもので、そういったソファがあるのは、大抵は夜の店で、その男は、赤にシルバーのラインが入ったジャージを着てサングラスをかけて、左腕が包帯で釣られていた。

私は紫のニットのワンピースを着て、網タイツを履いて、そりゃあもう見るからに夜の女で、座る時にハンカチを膝の上に置くのがいつの間にかデフォルトになっていて、水割りは手元を見なくても作れたし、釣られた左腕に視線を送ることもなかった。彼の手先ににじむ鮮血を見るまでは。

女は血に強い。毎月見ているのだから当たり前だ。だが、生理の時に流れる血と鮮血の色は明らかに違う。鮮血って本当に新鮮なんだな、と思いながら、暗い店の中でもわかる真新しい血の色、切り立ての本当に真っ赤な色になるべく視線を送らないようにしてテーブルに水割りを置いた。

ジャージのシルバーのラインが鈍色の海に似ているなと思いながら、私は「どこから来たんですか」と尋ねた。「そんなことよりこの手がどうなってるか知りたいだろ」と男は答えた。

「関西でやらかしたんだよ。始末つけなきゃいけなくて、で、これ。小指と薬指、置いてきた」

ひらひらと血がにじむ包帯に包まれた手を見せつけるようにして話す彼は、明らかに20代前半だった。当時の私は沖永良部島のスナックにいた。彼は、島の人間ではなかった。ほとぼりが冷めるまで、とりあえずあまり知られていない島に逃げてきたのかもしれない。だが、詮索は禁物だ。

「そうですか。関西からお疲れさまです」

今日は天気が悪いけれど、晴れたらすごく海がきれいなんですよ、と続けようと思った矢先、彼は口の左端だけで笑って言った。

「お前、俺のこと怖いと思ってるだろ?」

「怖くないです」

「そんなわけねえ。怖いだろ」

「いえ、怖くないです」

問い詰められることは怖かった。けれど、彼自身を怖いとは思わなかった。

彼を見ていて思い浮かぶ言葉はひとつだけ。

俺、どうしてこんなことになったんだろう?

「つい、一昨日だよ、指置いてきたのは。ほらまだ血が滲んでるだろ。でも、意外と思いきればその瞬間は痛くないのな。むしろ後から痛くなるって先輩が言ってた」

それって身体の話、と聞きたかったけれどやめた。

「なあ、怖いだろ」

彼はもう一度言う。

もし、彼が指を落として負けたような気持ちでいるのなら、「怖い」と言ったほうがいいのだろう。まだ自分に力があると彼が思いたいのなら。

もし、彼がもう戻れないところに来てしまったと思っているのなら、「怖くない」と言わなければいけないのだろう。取り戻せない失くした指を数えずにいられる相手がきっと必要だから。

けれど、私はどちらを言うことが正しいのか、わからなかった。

彼自身も、きっと、わからないのだろうと思った。

「怖いだろ」と詰め寄る彼を首を横に振りながら、見上げた。

私より目線は上にあるのに、すがりつくような目をしていた。

私は、やっぱり「怖くない」と答えた。

そうやって、何度も聞いちゃう時点で、もう怖いなんて思えないよ。

本音は、言えなかった。

彼のことは怖くない。けれど、巻き込まれるのは、怖かったから。

あの時、本音を言っていたらどうなっていたのだろう、とふと思う。

彼の着ていた赤いジャージのシルバーのラインのような鈍色の海を、二人で眺めていたのかもしれない、とも思う。

失くしたものがない人間なんてどこにもいないよ、なんて、よくある言葉だ。

ただ、あの時、口に出せなかった言葉を言えたならよかったと思う。

「晴れたら海がきれいですよ」

どうしてこんなところまで来てしまったのだろう、と思う時など誰しもにあるだろう。

だけど、もう、あらかじめ本当は決まっている。もしかしたら、私達はそれに抗いたくて、持っているものをなくそうとするのかもしれない、とも思う。「無い」から「在る」へのストーリーは劇的だ、いつでも。

小指と薬指をなくした男の子は、あの後に晴れた海を眺めたのだろうか。

知りはしないし、興味もない。けれど、私達はやはりこのことに抗えないのだと思う。

晴れたら海がきれいだと。どんなに私達が真っ暗な物語の中にいても、抗えずにきれいなのだ、と。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。