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【side A】天使も馬もマリアさまも嫌だった、あの子がしてきた大冒険

幼い頃から、幼稚園も学校も、嫌いでしょうがなかった。母に聞くと、幼稚園に入園する際から、「この子は普通の子じゃないから、公立じゃなく私立じゃなきゃ駄目だと思った」という。母の予感通り、私は幼稚園の入園式の日、何度も「トイレ」と言っては母を呼び、離れようとしなかったそうだ。

私が通っていた幼稚園はキリスト教系のところで、図書室が礼拝堂と離れにあった。私の一番最初の明確な記憶は、その離れにあった図書室で絵本を読んでいる時のことだ。

私にとっては、周囲より絵本の中のほうが、ずっと本当のような気がした。

確か、年長のひまわり組でいた頃のことだ。画用紙に「将来の夢」を描く、という授業があった。

「ああ、お花屋さんとかお嫁さんとか、書いておけばきっといいんだろう」

子どもに、「子どもらしさ」を求める大人の欲望を、私は既に感じ取っていたのかもしれない。

周りの女の子たちがひらひらしたレースのドレスや、色とりどりの花々を書く中、私は警察官の絵を書いた。

誰かが考えるかわいらしい子ども像に乗りたくはなくて、けれど、何かを書かなければいけないことはわかっていて、だったら、せめて、誰にも文句を言われないようなものを、何だかせめて正義らしいものを。

その時、自分がそう思ったことを私は克明に覚えている。

一般的に、子どもが女の子らしいものを嫌がるのは、親に女の子らしいものを着るな、と言われたから、もしくは逆に女の子らしいものを着ろと強制されたから、だと言われる。しかし、そういった記憶は私にはない。

ただ、嫌だったのだ。どうしても。

その、陳腐なストーリーをやめてよ。

どこから来たものなのかはわからない。ただ、強固に、そう思っていた。

その幼稚園では、クリスマスにキリストの誕生を題材にした劇を毎年行っていた。

イエス・キリスト、マリア、ヨハネ、三人の使徒や天使たち。園児には全員役柄が振られ、必ず劇に出なければならなかった。

一番人気の役柄は、天使だった。

セリフは、キリストの誕生シーンにそれぞれ喜びの一言を言うだけ。人気の理由は白い、きらきらしたスパンコールが散りばめられた衣装を着たいから。

私は絶対に天使だけはやりたくない、と思っていた。

数人で交代をして幕の横でナレーションを勤める役があった。衣装も地味で、出番は多かったものの黒子に近い。私は、その役を狙っていた。

しかし、いわゆる地味なタイプの子にはその目立たない役は人気で、私は抽選に落ちてしまった。残っている役柄は、人気のないもの。イエスが生まれた馬小屋にいる馬の後ろ脚の役か、衣装が地味なのにセリフが多く覚えるのが大変な、主役のマリアさましかなかった。

役が決まっていない子どもは私ともう一人の女の子だった。

今の視点から振り返ると、女の子がふたり、残る役柄は馬かマリアさま、という状態はなかなかに酷だ。私ですら、ひらひらした衣装は絶対嫌だが、馬の後ろ脚も嫌だ。

私と、彼女は、二人ともマリアさまを希望した。

結論から言うと、マリアさまは私が演じることになった。

天使も馬も嫌だから、マリアさま。

主役だろうと、聖女だろうと関係ない。子どもの選択はそんなものだ。

クリスマスの日、劇が終わり、「上手だった」と親に褒められた。「主役なんてすごいじゃない」と。

違うよ、馬かマリアさまかってだけだったんだから。

そう言いたかったけれど、その言葉が親の気持ちに水を差すこともわかっていた。

その時も、こう思っていた。

その、陳腐なストーリーをやめてよ、と。

そんな私が、今、物語を、文章を書く仕事をしている。

ライフストーリーは自分で描くもの、とよく言われるが、もしかしたら、私はどうしても自分の物語を自分で描きたかったのかもしれない。

そう、それこそ、幼稚園入園前の2歳の頃から。

小さなこぶしをぎゅっとして。けれど、目は世界に見開いて。

そして、私のライフストーリーは、同時に、誰かのライフストーリーでもある。

そう、それは出会う以上、つながる以上、どうしても深遠な網目のように織り成される人生の不思議な糸によって。

天使が嫌で、馬も嫌。けれど、マリアさまも居心地が悪くて、どうしても、誰かが作った物語に乗り切れないあの子は、なんだかんだ言いながらも、好き好んで大冒険をした。

その物語を、書いていこうと思う。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。