「朧月が照らし出すもの」

 穏やかな春の夜は、霞(かすみ)がかっていて風までも輪郭(りんかく)が丸くなったようで。景色の全てが、どこか現実味がなくて、夢か誠か戸惑うほど。夏には短い夜を惜しむように沈み、秋には絢爛(けんらん)と輝いていた夜の主(ぬし)は、冴(さ)えわたるシンとした冬の顔とはうってかわって、優し気(げ)に光を注(そそ)いでいる。その光が照らしだすのは一体なにものか。
「しばらく見ないうちに、また妖(あや)しく美しくなって。本当に気味が悪いこと。帝(みかど)も周りの者も、あの美しさに当てられて、正気を失っているのではないのかしら。」
姉君は今日もご機嫌斜めだ。光る君と呼ばれる帝(みかど)の第二皇子(だいにおうじ)。帝(みかど)が度を越えて寵愛(ちょうあい)し、姉君の嫉妬を一身に受けた、桐壷(きりつぼ)の更衣(こうい)が生んだ子。姉君にとって、憎まぬ要素などきっとないのだろう。ずっと年上の姉君は、誰よりも嫉妬深い。その気性の激しさに、親族も手を焼くことがあるのだから、帝はいかほどなのだろう。けれど、誰よりも気高く育てられた焼きもちやきな姉の愛情の深さも、また人並みではない気もする。本当に分かりにくいけれども。一人だけ愛されたいと思うのは、誰もが願うことなのだから。姉君に罵られ、世間に称えられている光る君。光る君の異母兄弟で、姉君がお産みになった第一皇子(だいいちおうじ)の東宮(とうぐう)に、もうすぐ入内(じゅだい)が決まっている身の上としては、気にもなる。
 身に刺さるような寒さも春の霞(かすみ)に和(やわ)らげられて、人々を陽気に誘う春の夜に。それは突然おとずれて。姉や父が用意した、私に相応しいとされる人生を、それなりに楽しんで歩んでいくのだろうと思っていた私には、まさに青天(せいてん)の霹靂(へきれき)で。これがあの、光る君。正気を失わせるほどの妖(あや)しいまでの美しさ。鬼でも妖(あやかし)でも、まして狼藉(ろうぜき)を働こうとするものでもなく、光る君であるならば。姉君が言っていたように正気を失うのも、また道理。夢のように儚(はかな)い、朧(おぼろ)な逢瀬(おうせ)は、こうして私の人生を大きく変えたのだった。
 思い返すと、幼い頃に思い描いていた未来の私とは、随分(ずいぶん)と違う私になったと思う。中宮(ちゅうぐう)にもならず、国母(こくぼ)にもならず。ただ朱雀院(すざくいん)の寵姫(ちょうき)の内侍(ないし)とだけ。貴(とうと)い身分も、世間の評判も何もかも。思っていたものとは随分(ずいぶん)と違っていて。けれど、それもまた自分の心に従ったこと。あの春の夜にまた戻ったとして、私はあの手を振り払えはしないだろう。すべては、私のしたことであり私の人生なのだ。姉君の後押しがあったとはいえ、朱雀院(すざくいん)は源氏の君とのことを知っていてもなお、この上なく私のことを大切にしてくださった。子をなすこともなかった、寄る辺ない私を。退位され出家された後も、心をかけて気遣い続けてくださった。他の女御(にょうご)には素晴らしい御子(みこ)もいらっしゃったのに。何故この方は、私をここまで愛してくださったのか。
「貴方が母君の妹君の朧月夜(おぼろづきよ)ですね。才媛(さいえん)との話は聞いています。先の内侍(ないし)に代わって、くれぐれも内侍(ないし)の務(つと)めをお願いしますね。」
そう言ったまだ帝(みかど)だった朱雀院(すざくいん)は、若く少し気が弱そうで、けれどもだからこそ優美(ゆうび)に見えた。その頃の私には、あの人との儚(はかな)い夢が忘れられず、その稀(まれ)なる優しさにも気が付けなかったけれども。それからあの人と私が相も変わらず逢瀬(おうせ)を続けている事が露見(ろけん)し、あの人は須磨(すま)に自ら赴(おもむ)いた。自責(じせき)の念に苛(さいな)まれ、自分の浅はかさに恥じ入った日々。それでも、朱雀帝(すざくてい)は私をお許しくださった。私ならば許せただろうか、勿論(もちろん)源氏の君であっても。私もあの人もきっと、許せはしないだろう。
「貴方があの人のことを好きだと思うのは、私にもよくわかります。幼い頃から、誰よりも源氏の君と比べられてきたのだから。あの人が貴方のことを魅力的だと思うのも、またこれ以上ない程によくわかる。貴方を心から大切に想っているのだから。つまるところ私には、どちらとも憎らしく愛おしいのだろうね。」
私の知っていた帝は、本当は気弱などではなく柳(やなぎ)のように強い人だったのだ。優しさとは、時に何物よりも強くしなやかで強かである、そう思った。心から。
 ただ一人を愛することなど、身分が貴(とうと)くなればなるほどできはしなくなる。私のことだって、何よりも大切にしてくださったけれども、私だけということは土台無理な話で。けれどそれは私も同じだ。私は源氏の君も、朱雀帝(すざくてい)もどちらも愛したことに後悔はしない。私たちは対等だった。想いは一つではないし、誰を想うのかもどのような想いをかけるのかも、誰にも決めることはできない。きっと決めたって、心が従うとは限らない。だから私は、私が二人に分けた私の愛情も二人にかけられた愛情も、それぞれを大事に抱える。全部、私が決めたことだから。あの人は驚くかもしれないけれど、私は貴方が思っているより貴方が好きよ。

                 <完>
参考文献 源氏物語一から六巻 瀬戸内寂聴訳

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