アキマル

いろいろあった今までをなんとなく書いています。 Twitterでは書けなかったことを少…

アキマル

いろいろあった今までをなんとなく書いています。 Twitterでは書けなかったことを少しずつ書いていこうと思います。 犬と猫、シール、お手紙、文房具、ドラクエウォーク、あつ森、食べることが大好きです。 2型糖尿病とうつ病の治療中です。

最近の記事

来月、さくらの頃に。(ついでに母のこと)

祖母の納骨をまだしていない。 母の住居にお骨があって、お線香を灯しながら、その日あったことを勝手にお骨に話したりしている。 来月、もう少し暖かくなったら納骨をする予定でいる。 祖父と叔母が入っているお墓は八王子のかなり山の方にあって、同じ東京でもかなり寒い場所である。 雪が降るとこちらより5cmくらい多く積もったりもするようなところ。 霊園で納骨のため、屋外でお経をあげたりするので、寒い時期を避けて3月がいいかということになった。 自宅からお骨がなくなるのは、正直とて

    • おっちゃんのこと。

      叔母が亡くなった当日。 祖父母は、葬儀などの準備や、体調と体力の回復のために、八王子の家に戻った。 母も疲れきったようで、眠ると言ったので、寝ずの番をするのは必然的に私になった。 まだ神経が昂っていて、眠くはなかった気がする。 たくさん出入りしていた人々が帰ると、何も言わない叔母との時間はとても長く感じた。 寝ずの番のためにあるお線香があった。 蚊取り線香のような形状で、渦の真ん中に吊るすための糸のようなものが付いていて、それを細い金属の台に吊るして使った。 かなりの時

      • 叔母が亡くなってから。

        我が家は鰻の寝床のように細長い立地で、叔母の遺体を階段から2階に上げるのは少し難しかったし、若くして亡くなったというのもあって、お線香やお供物をくださる方の訪問も多かった。 なので、遺体は臨時休業した母の店の椅子を並べた臨時のベッド?に安置された。 私は遅くなったけれど学校に電話をして、担任の先生にしばらく休むことを伝えた。 祖父母は本当にショックを受けていた。 祖父は、まだ何かあると、いると思って叔母の名前を呼んだし、祖母は叔母がまだ生きているかのように話しかけては、

        • 生きていて一番後悔していること。

          前回からだいぶ経ってしまいました。 祖母の納骨はまだ終わっていません。 ・・・ 叔母が亡くなる前夜。 私は中間テストの最中で、その日も遅くまで勉強していて、終わってやっと寝られるというところに、母の店を手伝っていた叔母が、2階に上がってきました。 疲れているだろうに、隣の部屋の電気をつけて、洗濯物を畳み始めた叔母。 わがままだった私は『眠れないから、あっちの部屋でやって』と叔母に言って、布団をかぶり寝てしまいました。 障害者ゆえ会話も上手ではなかったから、叔母は何

        来月、さくらの頃に。(ついでに母のこと)

          人生で1番つらかったこと。

          祖父母と叔母の愛情をたくさん受けて育った私は、ひとりっ子だったというのもあり、今思うと、わりとワガママに育っていたように思う。 どういうワガママかと言うとたくさんあって思い出せないけれど、若い時は、まだ家族に受けた恩とかをしっかり感じ取れないでいたし、いつもの日々が、ずっと永遠に続くと思っていた。 失ったことがなかったから、失う悲しみやつらさを、まだ知らずにいた。 だから、今日の間違いは明日どうにかすればいいし、私は私のままで別にいいやと思っていた。 この日が来るまで

          人生で1番つらかったこと。

          本当に大好きな叔母のこと。

          私が、自分のことを書いていく上で、絶対に欠かせない人は、叔母のことだと思う。 もう亡くなって来年で30年くらいになるのだろうか。 私は、叔母の年齢をだいぶ前に追い越してしまった。 私をありのまま愛してくれた、叔母のこと。 ・・・ 叔母は障害者だった。 子供(2歳くらい)の時に、交通事故に遭い、車にはねられ、頭を打ったのがよくなかったのか(昔は、詳しくはよくわからなかったし、祖父母も詳しく話さなかった)、知的障害があった。 身体は大きくて(私より少し身長が高かった)

          本当に大好きな叔母のこと。

          母の店や祖母のごはん。

          父親がおらず、母は仕事で忙しい中、私を育ててくれたのは祖父と、祖母と、叔母だった。 母は若い時から本当に仕事一筋で、たぶん子育ても、全部祖父母と叔母に任せていたように思う。 母は20歳くらいで自営業の店をはじめて、今もその店を続けている。 昔は繁盛していて、家族総出で手伝っていたし、パートの人がいたこともあった。 専門学校を出てから子供を産むまでは、私は1人で厨房を任されていた。 今は、私がいた大きな厨房は倉庫のようになっていて、店に小さなキッチンを作り、母が1人でも仕事

          母の店や祖母のごはん。

          祖母のこと。

          祖母の実家は、お菓子屋さんだったと聞いている。 祖父の家は貧しかったけれど、祖母はわりと裕福な家庭だったようだ。 昔あるような、店先に大きなびんがいくつもあって、アルミの蓋がしてあり、そこにあられやおかきやおせんべいが入っていて、量り売りする感じのお店だったと祖母は話していた。 落花生も機械で炒って売っていたそうだ。 私は、自宅がお菓子屋さんなんて、ばーばはいいなぁ・・・ってよく言っていたけれど、祖母の母親(私のひいおばあちゃん)がとても厳しかったらしく、よく店番をさ

          祖母のこと。

          祖父のこと。

          祖父母は静岡から東京に出てきた。 祖父は磐田。祖母は掛川の出身。 家が貧しくて、小学校しか行けなかった祖父は、小さい頃奉公に出て苦労したという。 奉公という言葉は『おしん』でしか聞いたことがなかったから、とてもびっくりした。 自分だけ学校にお弁当を持っていけず、水道の水を飲んで空腹を紛らわしていたそう。 担任の先生がお弁当を分けてくれたのは忘れられないと祖父はよく言っていた。 祖父の実家は植物や野菜の種を売る仕事をしていて、種の袋を縫うので、祖父はミシンがとても上手だ

          祖父のこと。

          生い立ち。

          父は、私が生まれる数日前まで放浪?失踪?していたけれど、出産にはギリギリ間に合ったという。 私が生まれるから帰ってきたかどうかは、今もわからない。 かわいがってくれたこともあったらしい。 抱っこしてお散歩に行ってくれたって。 基本的にいつも黙ってどこかに行ってしまうので、きっと私のことはあんまりかわいいと思えなかったんだろうと思う。 若くして子供ができて、プレッシャーなど、きっといろいろ辛かったのかもしれない。 放浪→自由を求めていたのだろうか。 もう今はわからないけ

          生い立ち。

          喪失。

          祖母が亡くなったことは、私にとって、とて大きな喪失だった。 例えば、1年に何度か帰る田舎にいる、たまに会うおばあちゃんとは違って、私は祖母のごはんで育ったし、一緒に仕事もしたし、10代のころから、祖母がかかった病院や、入院のお見舞い付き添いはほぼ私が行っていた。 ある意味、私はヤングケアラーだったし、とても繋がりが深かった。 ・・・ 私が生まれて、物心ついた時には、もう父はいなかった。 記憶に残ってるのはあごひげとメガネ。 1歳くらいの時に、両親は離婚して、父は出てい

          大晦日。

          11月18日に祖母が亡くなり、忙しいのはだいたい終わったけれど、次は、大きな寂しさが押し寄せてきて、最近、全然Twitterに参加?できていない。 糖尿病とも闘う元気が、今はない。 自分で言うのもおかしいけれど、とてもしょんぼりしていて、やる気がないのと、祖母のことばかり考えてしまって、心ここにあらずな毎日になっている。 ウォーキングもできていない。 5年前に、あるきっかけで私は大きな鬱になり、精神科に入院もし、そのあと10ヶ月くらい、『廃人』のような生活を経験した。

          大晦日。