「普通」という名のモノサシを捨てて、多様なモノサシを受け入れて生きていきたい。
こんばんは、akimichiです。
昨日は出張lindacafe@原価BAR1988のイベントゲストとして参加してきました。
主催の二人張本 舜奎と水口 智博、そして参加者のお二人とゆっくり対話できる時間になりました。
そこで出てきた「普通って何だろう?」という言葉。
「ある人は普通って線引きをしなくていいんじゃない?」と言った。ある人は「それは違う」と言った。
じゃあ「普通」ってなんだろう?
必ずしも失敗や挫折経験が無ければいけないのか?無いからこその悩みもあるはず。それなのにどこか人は白か黒かを決めたがる。僕も決めたい人だ。
でも人の見方や年齢や価値観によって、どう捉えるかも何千何万とある。だから「普通」っていう線引きはし無くていいはずなのにサイレントマジョリティな僕らは暗黙的に盲目的に答えを求めたがる。仮に声なきマイノリティなあなたはどんな解があったら、納得のいく答えを導けるのだろうか。
僕の仮説はこうだ。グレーでいいじゃないか。
白黒決めないで(こちらの要望としては黒)、でも解は場に集まった人同士の関係性から考えていいのではないだろうかな。それだけでどれだけの人が救われるだろう?そんな答えもあるんだ、そうか。そんな見方もありなんだ、そうかと。
大学卒業して人と人の対話や体験を通じてホステルづくりしてもいいじゃないか。
大卒会社員をリタイヤし、コミュニティ作りを通じて人と人が繋がりを持てるホステルづくりをしていいじゃないか。
一流の料理人をしながら障害のある方と一緒に働く環境づくりをする福祉領域に関わってもいいじゃないか。
まずは相手をまるっと受け入れることから始めてもいいんじゃないだろうか。それが解でもない過程でもいいじゃないか。その後に残ったカスみたいな言葉を受け入れてから歩き出せばいい。そこからが本当のスタートになる筈なのだから。
僕も過程を考える場を今少しずつ作っています。
ご興味ある方はぜひ一緒に作りましょう!
🙌【再挑戦できる生き方、働き方を学ぶ学校Vol.1】
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