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「このために『カナルタ』をエクアドルで上映したかった」と確信した、緊張感ある上映後ディスカッション

今日4月12日の『カナルタ 螺旋状の夢』上映後のディスカッションが色んな意味でとても刺激的だったので、書き留めておきたい。

『カナルタ』のキト劇場公開も今日で4日目。俺は期間中、毎晩上映後に劇場に行ってお客さんたちとディスカッションを行っている。毎回、全然違う人たちと出会い、交流することができていて、非常に刺激的だ。初回上映は観客の人数も多く、あまり多くの人と話せなかったが、様々な人に声を掛けられた。

目に涙を浮かべながら「神があなたを祝福する」と頬にキスをしてきた人。自身もおそらく先住民の出自で、アマゾンでの資源採掘や森林伐採の問題に詳しく、物事の複雑さを理解した上でしみじみと観てくれた人。「キトの子供たちに見せたいから、行政に上映できないか掛け合ってみたい」と恐る恐る話しかけてきた人。エクアドル人のアーティストやミュージシャンたち、そして現地在住の日本人の人たち。短い時間ではあったが、日本とは全く異なるコンテキストで出会った人たちとこの作品を通して言葉を交わすことができた。

翌日以降も、なかなか集客には苦戦しているが、毎晩個性的な人たちが観に来てくれている。特に印象的だったのは、2日目に来てくれたキト在住のブラジル人ドキュメンタリー映画作家、ブラジル人ミュージシャン、そしてスイスとボリビアにルーツを持つ国連関係職員、そして『森は考える』の著者エドゥアルド・コーンの叔母だという女性。

最初は基本的な質問のやり取りをしていたが、徐々に深く話題に入っていくと、編集の観点やドキュメンタリーと人類学の差についての話題から、批評的対話を交わすことができた。そして、最後は現在俺がブラジルに拠点を置いていることから、現地で会いたいねという話までした。コーンの叔母さんは、『カナルタ』のことをエドゥアルドに伝えてくれるようだ。

観に来てくれる人たちは、もちろん作品内に描かれているシュアールの世界観や実践のディテールに興味を示すが、同時に俺が辿ってきた軌跡自体にも興味を持ってくれる人が多い。「なぜ日本人の君が、イギリスで学びながら、アマゾンの森まで行ったのか」といった質問もよくある。日本の上映後トークでも、いつもたくさんの質問をいただくが、それはどちらかというと普段アマゾン熱帯雨林のことに触れる機会自体が少ないからこその好奇心の結果、という印象が強い。キトでは、国内にアマゾンがあるので、やたらとアマゾンのネタで映像を観せられても既視感が強く、イメージが飽和している。『カナルタ』は、その彼らの「既視感」を破る視点を持っている、という手応えはかなりある。

『カナルタ』は、本来南米や欧米で見せることを第一に念頭に置いて作った映画だ。なぜなら、『カナルタ』完成直後に発生した新型コロナウイルスがなければ、俺は日本にすぐに帰国するつもりはなく、ヨーロッパに留まって作品を発表していく心づもりだったから。そもそも、9年近く国外に住んでいたので、日本のリアリティを忘れかけていた。だから、編集中に最も強く意識したのは、エクアドルやイギリスに住む人たちにどのようにこの作品が突き刺さるかだった。その意味で、完成から4年を経てキトで『カナルタ』を劇場公開している今、ようやく「あの時込めた意図」を、当時想定していた観客の人たちにストレートにぶつけることができている。

断っておくが、日本で『カナルタ』を観てくれた方たちが「本来見せたかった相手ではない」という意味では決してない。もちろん日本でも見せたいと思っていた。ただ、日本での『カナルタ』の受容のされ方は他地域と比べて強い特徴があり、他の国々とは異なる社会的・文化的コンテキストが存在するということだ。

さて、そんなキトでの対話の中でも、今夜(4月12日)の上映後トークは非常に白熱した。エクアドルで上映する意義がここにあると確信した夜だった。

今日もいつものように多国籍な観客の人たちが来てくれた。北米、エクアドル、フランス、アルゼンチンなどの出身の人たちがいた。

上映終了後、部屋に入ると、いつものように簡単にこの作品がどうやってできたかを説明し、Q&Aに入る。いの一番に手を挙げたのはエクアドル人の女性だった。

「2つ質問があります。まず、あなたは彼らと全ての飲食を共有したのですか?それとも、あなた用の食物を運び込んだのですか?なぜ聞くかというと、彼らの食べ物を私たちやあなたが食べたら、問題が起こると思うからです。最近は、観光客を受け入れるアマゾン先住民の村でチチャを飲ませられるときも、彼らは『このチチャは唾液が入っていないので大丈夫です』と必ず事前に言うようになってきてるんです。唾液入りのチチャには健康上のリスクがありますから。そして2つ目の質問は、作品の中で浄水の設置を行政に求める場面がありますが、それはちゃんと遂行されたのかどうかです。私はアマゾンの先住民たちが質の悪い水しか飲めず、健康に問題を抱えているのを知っているので、彼らに浄水を届けるべきだと思っているんです。なのに、エクアドルの行政は、彼らに対して何もしない。これはとても問題だと思います」

彼女の質問は、端的に言って「非常にキト的」である。都市部のエクアドル人たちが、アマゾンの先住民たちをどう見てきたか、現在進行系でどう見ているのかを、体現している。

彼女に対して、俺はシュアールの人たちと全ての飲食を共にしたこと、それによる健康問題は発生しなかったこと、むしろ彼らの食物は非常に高い栄養価を持っていると感じたこと、そして彼らは浄水設備を持っていないが、浄水設備を持っていないことによる健康問題は複雑な構造の上にあり、決して彼らが元々飲んでいた水が悪いわけではないのではないか、という主旨の返答をした。

彼女は俺の答えに対して、エクアドルにずっと住んできた者として自身の見聞きした様々なことを引き合いに出しながら、大まかに言うと「彼らの生き方にはとても価値があるし当然認めるべきだ、だけど彼らがより良い生活を送るために、文明が手助けをしなければならない」という主張を繰り返した。

そこに割って入ったのが、フランス在住のアルゼンチン人の観客だ。彼はフランス人の友人たちと前列に座っていて、エクアドル人の女性が主張を繰り返している間、度々呆れたような表情を見せていた。そして、皮肉るようにこう発言した。

「後ろの彼女よりももう少し建設的な質問をします。シュアール語とスペイン語の間に、字幕では伝えられないニュアンスの差はありますか?あるとすれば、例えばどんな単語を挙げられますか?」

俺はそれに対して、シュアール語とスペイン語はあまりにも違いすぎるため、どうしても翻訳の過程でこぼれ落ちるニュアンスはあるということ、映画として成立させるために「リテラルな翻訳」よりは流れを重視した字幕を付けるよう、難しい選択を繰り返したということ、まさに「カナルタ」という単語自体が、複雑な意味を持つために完璧な翻訳はできないこと、などを伝えた。

すると、今度は別の人が発言した。スペイン語ネイティヴではなく、イタリア語訛りに聞こえたが、どこの出身か正確に尋ねることはできなかった。

「2つ質問があります。1つ目は、あなたがアマゾンで長期間暮らしたあとに外の世界に出た後、アマゾンで得た世界の見方を実際に適用しているのかということ。2つ目は、薬草についてどう考えているのか。私は医療関係者で、カメルーンの熱帯で仕事をしていたこともあるし、先住民の村で仕事をしたこともあります。彼らの健康状態は悪く、寿命も短い。乳幼児死亡率は都市部と比べて高く、出産時の危険も大きい。しかし、あなたは彼らは必要な薬草全てを持っていると思うのか、それとも近代医療は必要だと思うか」

俺は、1つ目の質問に対して、エクアドルからマンチェスターに帰ってきた日のことを話した。年中雨が多く、太陽を見れることがほとんどないマンチェスターで、自分が帰ってきた日は快晴だった。そのとき、「太陽が自分を歓迎してくれている」と本気で思った、という記憶について語った。しかし、今同じことが起きても、あの時ほど本気で太陽自身の意志のみでこの現象を理由付けはしないだろう、ということも述べた。つまり、今の自分には複数の世界観が同居していて、そのどれもが完全に自分を染め上げているわけではないということを話した。2つ目の質問に対しては、「健康状態が悪い」というのは、あまりに様々な要因や理解の仕方によって変わるので、一概に言い切れないということ、あなたがどんな地域で仕事をしたのかわからないが、ペルーのアマゾンに住む先住民の友人の言葉をそのまま伝えると、彼は「僕たちの民族の女性たちは全員自分の家で産むけれど、トラブルが起きることなんてほとんどない。トラブルが起きるとしたら、それは彼女たちがわざわざ病院に行って産もうとするときだ」と言っている、と答えた。

ここから、議論は急激にヒートアップしていく。そのイタリア訛り風の医療関係者と最初に質問したエクアドル人の女性は、「そんなことはありえない!」と、俺がただそのまま伝えた先住民の友人の言葉を否定し始めた。フランス在住アルゼンチン人の人や、フランス人の観客たちが彼らに対して反論する。「私はキトで水を飲んで体調を崩したこともある。キトの水がアマゾンの水より綺麗だなんて、誰が言えるんですか?都会の方がアマゾンより清潔だと決めつけるのはおかしい」「テクノロジーを彼らにもっと教えるべきだとあなたは言うが、そんなことを外の私たちが押し付けるのは傲慢だ」「自分は医療関係者だ。彼らの健康状態がいかに酷いかわかっている!」など、途中からは俺を抜きにして激しいディベートのようになっていた。最終的に「このまま続けても言い合いになるだけだ。この作品は素晴らしかったのだから、もうここで終わりにしよう」と誰かが言い、落ち着くと、ちょうど映画館が閉まる時間になったので、外に出て解散した。

アルゼンチン出身の観客の人は、外で俺に「エクアドル人と話していて時々ビックリするのが、彼らは未だにすごく西洋中心主義的なんだ。今日みたいな話は、他の場所でなかなか出ないよ」と呟いた。「とにかく、作品はすごくよかった。今度は都市でも映画を作ってくれよ」と言い残して友人たちと去っていった。

トークの最後の方は「せっかく良い映画だったんだからどっちが正しいか言い合うのはやめよう」という空気でまとまっていったが、俺からすればこのような白熱したディスカッションこそがここで求めていたものだった。『カナルタ』で俺が行っていることは、まさに今日来ていたような人たちを確信犯的に「苛つかせる」ことだからだ。

それは、「先住民の人たちが素直に思っていたり行っていて、西洋中心主義的見方を揺るがす可能性のある様々なこと」を、彼ら自身の言葉で表象の舞台に乗せること、だ。

これを実行することの難しさは、なかなか日本では伝えにくい(おそらく「日本」とのコロニアルな関係を色濃く持つアイヌの人々や沖縄の人々などを除いて)。彼らにとっては事実である物事について、その事実を単純に言葉にすること(自宅出産の際のトラブルはほとんどない、唾液入りのチチャを飲んでも健康には問題ない)自体が、都市部に住む人々にとっては自分たちと先住民たちの間のコロニアルな主従関係を揺るがす行為であり、何があっても即座に先住民たちの口を塞がなければならないからだ。つまり、「彼らは全く科学的ではない!」と必死に叫びながら、「本当に起きているかもしれないこと」を否定することで、逆に「全く科学的でない態度」に陥ってしまう(なぜなら、彼らは大抵自ら実験もしていないし、しようともしないから)ほど、彼らを脅かすことなのだ。

これまで『カナルタ』のような作品がほとんど生まれなかったのは、この「先住民たちがありのままを語る口を塞ぐ」パワーがあまりに強すぎるためである。唯一先住民たちが口を開いていいのは、むしろ根底から「西洋文明の欠陥」を説く場合だ。「高貴な野蛮人=noble savage」の役割、つまり西洋が気持ち良くなるある種のSM的関係を構築するときのみ、先住民たちは口を開ける。その場合、「西洋」の側にいる人間たちは、たまに思い立ってスーパーフードを口にするように、自己を揺るがされることなく刺激を得ることができる。『カナルタ』がある種の人たちを苛つかせるのは、この作品がそのSM的快楽を慎重に避け、揺れ動く曖昧な個人としての先住民たちの姿を描いているからである。この世界で曖昧であることを許されるのは、特権を持つ人間だけなのだ。

『カナルタ』に登場するシュアールの人々は、「西洋文明」を全否定するのではなく、あくまでも個として自分らしく生き、自分が真実だと思ったことに対して忠実である。それはときに、「西洋的なるもの」と「先住民的なるもの」という、誰かが勝手に決めたにすぎない境界を行き来する可能性を生む。その境界を「誰かが勝手に決めたにすぎない」と白日の下にさらされることは、その境界の中で自己を保っている人たちにとっては、脅威なのだと思う。

このヒリヒリするような感覚は、同じ国家の中で隣り合いながら生きているからこそ、生まれる。また、今日来ていたフランス人やフランス在住アルゼンチン人の人たちがエクアドル人やイタリア訛り(?)の医療関係者に対して強く反論していたのも、彼らも広義の意味で「西洋中心主義」とどう関わるか、自分の立場を常に問われていると自覚しているからだ。その意味で、国籍や出自は違えど、今日来ていた観客の人たちは、『カナルタ』によって自分たちの存在が揺るがされた感覚を得たに違いない。

『カナルタ』の上映は残すところ明日4月13日と明後日14日の2回。週末なので今までよりも多くの人たちが来てくれると期待している。とりあえずキトでの上映は間違いなく赤字ではあるが、毎晩経験する観客の人たちとの出会いや対話は、非常に刺激的で学びがある。最後まで、楽しみ尽くそうと思う。

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