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〝都議会のドン〟になり損ねた政治家~杉並区長選挙で現職敗北

 多忙な日々を送っていて、今日はさすがに疲れ果てて休みをいただいた。いつもより遅く起きて、Twitterを開くと、翌日開票だった杉並区長選が僅差で競っていて、急に脳内が覚醒した。野党共闘で立てた女性候補は、基礎自治体の首長選にはもったいないほどの優秀な人材だ。ある程度競り合って当然だと思っていたが、まさか、あの田中良さんが選挙で負けるなど、想像もしたこともなかった。

 田中良さんとの出会いは、最初に都庁担当となった1999年のことだ。幹事長時代には何度かインタビューにも伺った。当時の民主党は、飛ぶ鳥落とす勢いで、都議選では改選のたびに議席を増やしていた。一時期を除くと一貫して会派の幹事長などの要職に就き、都議会民主党のリーダー的存在であり続けた。旧民主党出身の都議会議員は、今も会派は違えど何人も残っているが、良くも悪くも、良さんの影響を受けた人が多いはずだ。

 2009年に都議会で民主党が第1党に躍進したときには、都議会議長として、表に裏にらつ腕をふるっていた。たまたま偶然ではあるが、2009年の都議選では、政権交代の風にあおられる形で、千代田区選出の自民党の内田茂さんが落選した。それまで都知事不在の都庁で〝要〟となって権力を握っていた内田さんが落選したことで、良さんの立ち位置も難しくなったように見えた。

 改選後初の臨時都議会、自らの議長就任を決めるはずの都議会本会議が、自民党や公明党の議員が集まらず、流会となった。もちろん、当時は自公は過半数割れしていたので、本会議自体は成立する。議長を決められないわけではない。ガチンコで自公とけんかしようと思えばできたはずだ。だが、良さんはそれを選ばなかった。自公を同じテーブルに座らせることから仕切り直したのだ。

 都議会の権力は、二つになった。一つは、〝都議会のドン〟としてこれまで都政を牛耳ってきたが、政権交代の風に吹き飛ばされて議席を失った自民党の重鎮。もう一つは、政権交代前夜の熱狂で第1党を奪った民主党のトップで、都議会議長。

 良さんはおそらく、第二の内田さんになろうとしていた。

 当時は石原都政の3期目である。石原慎太郎都知事は都庁に週2度しか出勤しない。いわゆる「やらせ質問」事件で、側近を更迭し、都庁における求心力を失った石原知事は、間違いなく都政に対する関心を失っていた。そんなトップ不在の都庁で、役人が頼ったのが、〝都議会のドン〟こと内田さんだった。民主党が第1党となり、内田さん自身も議席を失い、権力の座標軸がブレた。ドンなき都政で、良さんは自らがドンになろうとしていたのではないか。

 ところが、自民党は思わぬ試練を良さんにぶつけた。2010年の杉並区長選に、彼の元妻を擁立したのである。当時の都政を見れば、そんな挑発に乗っかる必要などないが、まんまと乗っかるのが良さんである。都議会議長の座を投げ捨て、区長選に挑戦し、当選した。

 山田宏元区長(現自民党衆院議員)は、ギンギンのイデオロギー丸出しのパフォーマンス首長だった。そういう意味では、良さんは、区政をまずは正常化させた功労者だったと言える。一方で、特に2期目以降は、自公が与党的な立ち位置となり、議会内の敵が減ったためか、あまり良い評判を聞かなくなった。

 私自身は、長らく区政の取材から遠ざかっていたから、当時、そこで何が起きていたのかまでは把握していない。

 布石はあった。

 昨年7月、田中区長が緊急事態宣言の発令中に公用車で都県境を超えてゴルフ場を訪れ、飲酒を伴う会食にも参加していたことが報じられた。本人は「公務」と釈明したが、公用車の不適切使用が指摘されたのは、これが初めてではなかった。

 昨年10月、衆院選では小選挙区の東京8区で、野党が推した新人候補が自民党の石原伸晃氏を破った。石原氏の得票は選挙のたびに減っていたが、それでも〝落ち目〟の立憲民主党の候補者が負け知らずの石原氏を破るというのは、確実に水面下で地殻変動が起きていることが伺えた。

 今年4月の練馬区長選では、野党共闘の新人候補が都庁官僚出身の現職に僅差まで迫った。やはり、対立軸が明確で、「勝てる」という空気が漂うと、有権者は確実に動く。首長のおごりが垣間見えていれば、なおさらのことだった。

 そして、区長選投票日の前日、毎日新聞が内閣支持率の減を報じた。

 円安と物価高に対して無策な岸田内閣に対する国民の失望が広がっていることが伺える。もちろん、良さんは旧民主党出身で、自民党ではない。だが、最近の区政における区長の〝自民党的な振る舞い〟は、確実に区民感情に影響を与えていたはずだ。

 良さん本人は、町場の空気の変化に気づいていたのだろうか。

 良さんの敗北で、また一つ歴史が終わったのだと思った。つまり、旧民主党的な権力の終焉である。民主党が都議会第1党だった時代、民主党と自民党は激しく対立していたが、それは表向きのことで、水面下では両者の駆け引きやすり合わせが行われていた。その典型的な事例が、豊洲市場の土壌汚染問題だった。

 2010年3月、都議会は豊洲市場関連予算案を賛成多数で可決した。都議会で築地市場移転反対派が多数だったにもかかわらず、である。都議会予算特別委員会の終盤、付帯決議や理事者側答弁を理由に民主党が賛成に転じたからである。付帯決議には、豊洲市場予定地の「無害化」という言葉が盛り込まれた。

 この「無害化」という抽象的な言葉は、後々まで、小池都政まで、その解釈を巡って、築地市場移転問題の迷走の原因となった。

 豊洲市場関連予算案の賛成と引き換えに、自民党は築地市場特別委員会の設置を受け入れ、理事者側は現在地再整備の検討を受け入れた。

 知事サイドや自公は、予算案の賛成という形で体面を保ち、民主党側も自らの公約である「築地市場の強引な移転反対」を確約させることで、体面を保ったのだ。

 しかし、このなれ合い決着が後々、小池都政における大混乱につながる。

 そこは、今日は問わない。

 落としどころのない政治は無責任だ。だが、議会の二大勢力がお互いに体面を保つためだけに政治を弄ぶのは、昭和・平成と続いてきたなれ合い政治と変わらない。人はそれを「55年体制」と呼んだが、私は自民党と社会党とのなれ合い政治だけが悪いとも思っていない。

 内田さんの自民党的な権力と、良さんの民主党的な権力。どちらも、実は昭和・平成から続いてきた古い政治システムが根底にあって、それが今、終わりを迎えたということだ。

 政治に〝ドン〟はいらない。政党が横でつながって、市民がみんなで支えればいい。野党共闘とは、突き詰めれば、そういうことなのだろう。

 潮目は確実に変わっている。

 良さんには悪いが、気持ちとして吹っ切れた感じがある。

 最後に余談になるが、6月9日に石原慎太郎のお別れ会が都内で開かれた。ニコ生で配信していたから、空き時間に観てみた。

ニコ生の配信からスクショ

 これもまた、一つの時代の終焉である。いつまでも昭和や平成の古い人脈や組織風土にしがみついていると、時代に取り残される。どういう立場やイデオロギーであれ、そこは自覚しておきたい。石原的な空気の供給源が政治の世界から消えて久しいが、今もなお、その当時の空気をそのまま政治の世界に持ち込もうとする人がチラホラといる。猪瀬直樹しかり。小池百合子しかり。

 参院選で、その空気を断ち切りたいものだ。



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