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映画『(GONE GIRL) ゴーン・ガール』感想

きょうのテーマは、ゴネ女じゃなかった「(GONE GIRL) ゴーン・ガール」に愛を学ぶ、です。

 「恋愛」って難しいですよね。

 特に難しいのは「結婚」、人によっては、結婚と恋愛は何にも関係がないと仰る方もいますが、アタシ的には、結婚に「恋」はなくても、せめて「愛」はあるだろうと思いたいの。

 でも、結婚してないし・出来ないし・するつもりもないから説得力0です。  

     2016年に流行った言葉で『ゲス不倫』というものがあります。

下衆(げす)の、すなわち品位に欠くような下劣な不倫行為、といった意味で用いられる表現ですね。

   特に「ゲスの極み乙女。」が関わる一連の不倫騒動・スキャンダルを指す語として定着し、芸能界や政界で次々と発覚した不倫騒動を報じる際にも用いられました。

     ゲス(下衆)は「品位に欠いた下劣なさま」といった意味を示す語です。

「ゲス不倫」という語が「ゲスの極み乙女。の不倫騒動」に端を発する表現かどうか、という点は異論の余地があるようですが、国会議員が産前で緊急入院した妻を放って不倫に及んだという報道があった際も「ゲス不倫」という表現が用いられています。

 「ゴーン・ガール」って、人間関係的には、この「ゲス不倫」のベッキーじゃなくて、川谷絵音を主人公にした映画、、。

 でもないか、どちらかと言うと川谷絵音の奥さんを主人公にした映画ですね。

 川谷絵音がベン・アフレックで、奥さんがロザムンド・パイク。うーんと映画ではベッキーは誰だっけ(笑)。


 ざっと映画の粗筋を紹介すると、『表面的には幸せそうに見えるニックとエイミー夫婦。

    そんなある日、エイミー(ロザムンド・パイク)が血塗れの部屋から謎の失踪、やがて疑いの眼差しはニック(ベン・アフレック)に向けられ、ニックは世間からの激しいバッシングの嵐に晒されるのだが!?』って感じなんですが、この映画の面白いところは、そんなありきたりのミステリーぽい展開は前半3分の1位のところで終わってしまって、あとは「マスコミ(世間)vsニック」と「エイミーvsニック」のそれぞれを、息もつかせぬ毒のある面白さで突っ切るところでしょうね。

 この「毒」は、デヴィッド・フィンチャー監督の独壇場ですね。

 特にロザムンド・パイク演じるエイミーのパートが面白い。 だって彼女、昔、自分に付きまとってたストーカーを逆に利用しちゃうんですよ。

 悪女かキレ女か、出来る女の暴走か、それとも女なら誰でも持ってる特性を、ただ誇張してみせただけなのか?

 どちらにしても、男に取っての「理想的な女」を常に演じてるには、あまりお呼びでない女の部分が全面に押し出されてきます。

 そんな女の怖むさに、「結婚」という男と女の生活様式が絡んでくるから、始末に負えません。

 ラスト辺りでエイミーが「お互いに憤り相手を支配しようと傷つけ合うのが結婚なのよ」とニックに宣言して、そのマウンティングを完了させるのを見たアタシ周辺の既婚男性陣の多くは、苦笑いと共に、みんな半泣きでしたね(笑)。

 でもアタシは、こんなエイミーだって「まぐろ(女)」と比べたら凄くましだと思うんですよね。

 少なくともエイミーが、ニックから受け取るべき愛情について拘りを持っていたからこそ、この復讐劇が始まるんですから。

 「まぐろ」なんて只、愛されるでけで、何の反応も返さないんですよ。

 貴男からの「愛が足りない」とも言わないし、「その愛は間違っている」とも言わない、耐えてるわけでもない、無関心でさえない。 ただただ、自分に向けられる愛を受け入れているだけ。

 その代わり「変化」が起きないから、二人の間にはさしたる破綻もない。

 意外に多いんですよ、「まぐろ」は。(もしかしたら「まぐろ」男もいるかも)

 「まぐろ人」になる原因って、恋愛経験が少ないのか、あるいは数じゃなくその「深さ」が足りなかったのかは、解りませんけどネ。

 情報量が多くなるほど、人間関係は希薄になる。    恋愛の「ドロドロ」のやり方すら、間違える。

 こんなご時世だから、男も女も、やっぱり「恋愛」については、ちょっとは勉強した方が良いかも知れませんね。

 アタシなんか頭の中は「男脳」なのに、姿は「女」で、対応も女性に近づけた上で、尚かつ男性が喜びそうな事しなくちゃいけないので、常に「こんな時、女性ならどんな風に感じるんだろう」ってかなり訓練しましたが、未だに男脳からすると「それはないだろう!」って事は一杯あります。

 それが夫婦喧嘩の原因なんですよ。

 これ、昔なら、夫婦喧嘩を百回くらいやった後で、なんとんなーくようやく判ってくる感じじゃなかったかしら(笑)。

 「ゴーン・ガール」で光っているのは、なんと言ってもロザムンド・パイクでしょ。

 ロザムンド・パイク演じるエイミー、前半の「出来る女」パートも良かったけど、何と言っても、その悪巧みが明かされてからのパートが超面白いです。

 ちょっとお間抜けなくせに、やっぱり超したたか。

 だってエイミー、昔、自分に付きまとってたストーカーを逆に利用しちゃうんですよ。

 そのエイミーを単なるサイコ女みたいな形でまとめないで、ロザムンド・パイクがそれこそ「生きた女」として演じきってます。

 演出の方では、このエイミーで、悪女かキレ女か、出来る女の暴走か、まあ女なら誰でも持ってる特性を、ただ誇張してみせただけなのかも知れませんけどね?

 どちらにしても、この映画、男に取っての「理想的な女」を常に演じてるアンには、あまりお呼びでない部分が全面に押し出されていましたね。

 そんな女の怖さに、「結婚」という男と女の生活様式が絡んでくるんだから始末に負えません。

 ラスト辺りでエイミーが「お互いに憤り相手を支配しようと傷つけ合うのが結婚なのよ」とニックに宣言して、そのマウンティングを完了させるのを見たアン周辺の既婚男性陣の多くは、苦笑いと共にみんな半泣きでしたね(笑)。

 でもアタシは、こんなエイミーだって、精神的な「まぐろ(女)」と比べたら凄くましだと思うんですよね。

 少なくともエイミーが、ニックから受け取るべき愛情について拘りを持っていたからこそ、この復讐劇が始まるんですから。

 「まぐろ」なんて只、愛されるでけで、何の反応も返さないんですよ。

 「愛が足りない」とも言わないし、「その愛は間違っている」とも言わない、耐えてるわけでもない、無関心でさえない。

 ただただ、自分に向けられる愛を受け入れているだけ。

 その代わり変化が起きないから二人の間にはさしたる破綻もない。

 意外に多いんですよ「まぐろ」は。

 恋愛経験が少ないのか、あるいは数ではなくその「深さ」が足りなかったのかは、知りませんけどネ。

 情報量が多くなるほど人間関係は希薄になる。恋愛の「ドロドロ」のやり方すら間違える。「テラスハウス」なんか製作してたり、見てたり、、駄目ですよ。あんなの。ちっともリアルショーじゃない。




 




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