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観音菩薩 #SS

   恵実はため息をついた。十二月、平日の午前。観光シーズンは終わった。案内所に入ってくる客はまばらで、ガイドを頼む客もいない。ガイド休憩所のテーブルで仰木が一人、はがきを書いている。もう三時間もそうしている。
 仰木に茶を出しがてら、声をかけた。
「今日は、何枚書かれたのですか?」
 仰木が人懐っこい笑顔をあげた。
「山本さん、ありがとう。今日は二枚だけやから、ちょっと仏さんも描いてみたんや」
 みると、仰木の肉厚の字の隅にかわいらしい薬師如来像が色筆ペンでしたためられている。さいきん彼はイラストも始めたのだ。
「わあ、もらったお客様は嬉しいでしょうね。……でも、こんな丁寧なはがき、筆不精の方はお返事が大変かも」
 言いながら恵実は、自分でもおかしな言い方だと思った。
「返事なんか、無くてかまへんのや。好きでやってるのやから。もう癖になってて、出さへんと気持ち悪うなるのや」
 仰木の心情はわかる。しかし、はがきをもらった側は喜んでいるとは限らないのだ。

 国宝の寺そばの観光案内所。観光ボランティアガイドの仰木英雄がガイド後、その客宛にはがきを出す行為が問題となっていた。
 観光ガイドを依頼された際、恵実たち事務員が客の名前、住所などを聴き取り、受付表を作成する。これはガイド全員が閲覧できる。今ならご法度だが、時は二〇〇〇年。個人情報保護法が施行されるのはこの数年後だ。
 ボランティアを銘打っているゆえ、ガイドの報酬は一切なし。それを気兼ねしてか、客の中には自宅に帰ってから案内所あてにお礼状を送ってくる人がいる。お礼状は該当のガイドに手渡すのだが、仰木は逆に、案内した客全員にはがきを出すのだった。こんな変わったガイドは百人近くいるなかでも彼しかいない。
 内容は、その後お元気ですか、など他愛ないものだが、返事を出さなければいけないかと負担に感じたり、住所を覚えられているのを気味悪く思う人もいるだろう。
 客から苦言をちょうだいする前にやめさせたいと事務員で話し合った結果、一番後輩の恵実がこの面倒な役目を押しつけられたのだった。
 恵実は、仰木が好きだ。陽気でおおらかな仰木は、どんな客も引き受けてくれる。修学旅行生は話を聞かないから嫌だとか、他のガイドみたいに言ったりしないのだ。
 仰木と話していると同年代の自分の祖父と話しているようで、時間を忘れてしまうのだった。はがき書きをなんとか続けさせてあげたい気持ちは山々なのだが……。
「実は、本日から、お客様の住所は都道府県までを伺うことになりまして、……」
 皆で考えた案をつっかえながら告げた。仰木がハッとした。
「ああ、最近テレビで言うてる個人情報なんとかってやつか。ほなら、しゃあないわな」
 八の字眉をさらに下げた。
「そのおはがきは、出していただいて結構です。次回から、ということで」「わかりました。ああ、楽しみがひとつ無くなってしもたわ」
 かか、と笑った。嫌味には聞こえなかった。
「ところで元日にもガイド予約は入っているんかな。できれば僕に任せてほしいんやけど」
「午前と午後に一組ずつ入っています。お願いしてよろしいですか。いつもすみません」
 仰木には同居する妻と娘がいるが、疎外されており、その寂しさから毎日案内所の開館から閉館まで「出勤」するのだという先輩の話は本当だろうか。毎年、元日の八時の開館と同時に来るガイドは仰木だけだ。
「ところでな、これは山本さんにと思って描いたのや」
 はずかしそうに、一枚のはがきを差し出した。いつもありがとう、の大きな字の横に、黄色と紫に彩られた観音菩薩が柔和な笑みをたたえていた。

 仰木のために何かできないか。恵実は、案内所のホームページに載せるイラストを仰木に描いてもらう案を出した。渋い顔をした先輩たちだったが、仰木にもらったはがきをみせたところ、一度限りで試すことになった。
 これが好評を呼び、仰木は町の広報誌のイラストも担当。人気テレビ番組へ出演するに至った。好奇心旺盛な仰木は触ったこともなかったパソコンを買い、現在、個展のための絵をイラストソフトで描いている毎日である。
「でも英雄さん、私は筆ペンの素朴な絵が一番好きやけどなあ。パソコンの筆ペン風じゃなくて、むかしはがきに直接描いてたやつ」
「泣けることを言ってくれるなあ、恵実ちゃん。画風は変わっても、心は変わってへんねんで」
 仰木のアトリエのマンションの一室。恵実をモデルに、紅色の隆起あらわなアフロディーテ女神を描いている最中である。