akirA / notenote

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notenote(ノートの手)をテーマに書いてみます "書く"ことは、前に進むためのきっかけ ぼくには書くための手が必要だ だから、もうひとつの手を、手に入れたい    加藤晃 デザイナー LIVAL

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書いてみたいことは何か、を書き始めてみる

おはようございます ぼくはまだnoteを始めてから 1日目という記念日を迎えたばかりです たまにネットサーフィンの果てに 誰かのnoteの記事に触れることはあっても 「自分もやってみようかな」とは すぐには思わなかった clubhouseで知り合った方々が 「この人おもしろいなぁ」と思って お話を聞いていくと、 どうやらみなさんnoteを活用しているらしい そこに興味が湧いた きっと、noteを活用しなくても ぼくは今後の人生で困ることはない それはこれからも同じ

    • "手"に汗にぎれ

      火事場の底力って、いつ発揮される? 潜在的な能力が呼び起こされる瞬間は いつやってくるのか 「いつ」も気になるのだが、 その「力」の強さというか いつもと違う「力」が どのくらい眠っているのか 「眠っている」という表現が しっくりくるニュアンスなんだとしたら 人はなぜ、その「力」を寝かせておくのだろう 使い続けてはいけない 何かリミッターのようなものが あるようにも理解できる 命が削れていく音が聴こえてくるかもしれない それを、理性的に押さえ込む 防衛本能が働く

      • "手"に入れたものにこだわるな

        「こだわりの逸品を手に入れた」 こだわったのは作り手の方だろう 手に入れた人がこだわったわけではない もしこだわったというのなら "手に入れること"にこだわったまでの話 ここで書き留めたかったのは ・【こだわる】を何に付加するのか ・誰がこだわっているのか こだわる側にいたい自分としては そのことをどのように伝えていくのか コミニュケーションにも手が抜けない こだわりすぎる、つまりエゴは 他人に押し付けたくない つくり手である自分にしか こだわることができないって

        • "手"堅いチャレンジはおもしろくない

          「チャレンジ」を評価する場合 チャレンジ「すること」を評価するか チャレンジ「したい内容」を評価するか チャレンジ「した結果」を評価するか どれも評価対象ではあるけど どこに重きをおいて評価するのが良いのか ぼくはチャレンジの「奥行き」を評価したい 上記3つのうちなら、「したい内容」に該当する部分 せっかくやるなら、 だれもやったことのない まだ見たこともない 役に立つかわからない 無知の知ならぬ、未知の知を 最近ブルーオーシャン、レッドオーシャンという 表

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        書いてみたいことは何か、を書き始めてみる

          "手"さぐり 腕だめし 肩ならし

          手先のセンサーはとても感度が高い 職人と呼ばれるほど、技術に富んだ人の手先なら 1mm以下の誤差だって見逃さない そのかわり、そのセンサーを使いつづければ 自分を消費しかねない だから、手先が覚えた業ならば 徐々にその感覚は腕のほうまで 浸透していくだろう 少し力の抜けた、リラックス状態まで 自分の中に落とし込めれば、 無理のない持続を始められる さらに時間が経ち、必死に習得したはずの 仕事を忘れてしまった?という場面もあるだろう そのときはゆっくりと肩をならす

          "手"さぐり 腕だめし 肩ならし

          "手"解きは謎解き

          相手に何かをおしえるって大変だ 初歩からおしえる、として その「初歩」の目線が合わないと ちぐはぐになる そこからの歩幅が合わないと 相手はついてこれない 「えっ、これがわからないの?」 ↑これは絶対に言ってはいけないやつ 相手の「わからない」を「わかる」ことが おしえる側の態度として必要ではないか 無知の知 その一方で、 「これくらいは予習してきてよ…」 ↑おそわる側の姿勢にだって その場に臨む意気込みみたいなものを 感じたいわけだ お互いの温度感がピッ

          "手"解きは謎解き

          "手"伝うことは伝えられていくこと

          手を伝う と書く 手伝うは単なるHELPではない 手と手を取り合うように その熱量を受け取ること 同じ熱量で、目線を合わせて 対等に立つ覚悟のようなものを 持ち合わせることで、うまくいく ここの均衡が崩れたまま 何が進行していくと、つまずきやすい 足元の障害物に 気づける人と気づけない人が 一緒に手をつないで歩いていたとしよう 結果が容易に想像できる 心理テストのようなもので この結果をどのように想像するか これもまた、前に進むきっかけを つかむマインドチェン

          "手"伝うことは伝えられていくこと

          "手"を貸して欲しい人は、まずその手を差し伸べましょう

          世の中、give(ギブ)とtake(テイク)で できていると称える人がいたんです いわゆる、ギブアンドテイク もう少し突っ込んで考えてみよう 日本語で言うなら 【持ちつ持たれつ】と訳すのが 良いのかなと思う 【お互い様】という精神でもあるのかな これがもし、一方通行になってしまうと 【親切の押し売り】とか 【余計なお世話】とか 【搾取】なんてことになりかねない もちろん、永続的に与え続けられる 天使のような人も、いることにはいる 逆にギブばかりを求めて 分け与

          "手"を貸して欲しい人は、まずその手を差し伸べましょう

          "手"の込んだテキトーをやろう

          遊び心って、みんながもともと 持っているもの? 大人になると忘れてしまうもの? 後天的に学びとっていくもの? 日々のくらしのなかで、余裕の無い人にこそ 遊び心を忘れないでほしいと思う 会社員デザイナーをやっていると ついついデザインの正当性を プレゼンしなければならない場面もある それはそれで、商品を世に出すために 必要なプロセスとして、通過点として 全力で語らなければならない 人は不思議なもので、 無駄を省きたいはずなのに 寄り道をする どんなに研ぎ澄まされた

          "手"の込んだテキトーをやろう

          "手"が求めるしあわせ

          最近こんな例え話を考えてみた もしもの話 コミュニケーションロボットを デザインするなら あなたはどっちをデザインするか A案 外見はまるで犬 ペットのような存在をイメージ 撫でると気持ちよさそうにしっぽを振る 搭載のAIは学習機能を持たない 価格20万円 B案 インテリアを邪魔しないスッキリとした箱形状 できる限り無駄を省き合理的に設計 撫でると気持ち良さそうにゆっくり揺れる OSは常にアップデートされ最新の状態を保つ 価格2万円 極端な二択 これをどう評価す

          "手"が求めるしあわせ

          "手"にとれる思いはもどかしい

          打ち合わせをすると、 その人の置かれた環境だったり どういうスタンスで仕事をしているのかが 見えるようになってきた 仕事は始めから最後まで「人と人」 ときにはどうしてこの人に 遜らなければならないのかと モヤモヤすることもあった それも仕事のひとつと 気持ちを切り替えてきた ただ、最近はちょっと気持ちに 変化が現れてきた 良い仕事の先には 良いアウトプットや良い評価がある 良い仕事、ぼくのなかでは 「気持ち良くできること」に尽きる だから気持ち良く仕事ができるよ

          "手"にとれる思いはもどかしい

          "手"応えは柔軟な発想から

          これだっ!! アイデアは当然やってくる それが良いアイデアなのか そうじゃないのか 経験値の高い人は その真相に迫る速さが違う 自分ではこれ以上ないアイデアだと 自信に満ちたプレゼンも 共感を得るのは簡単ではない アイデアは純粋にアイデアとして 評価するのは難しい まして、良いアイデア、となれば それを測る物差し次第でも 評価はさまざまになると思われる ぼくはその物差しを【共感覚】とし 他人の頭を借りて評価する ここで陥りたくないのは 自分の納得してないアイデ

          "手"応えは柔軟な発想から

          "手"塩にかけたものを、気持ちよく"手"放すこと

          人は執着する生き物 なかなか、手放せない ここで言う「手放す」は 「捨てる」とは違う ものに対しても、ことに対しても 手離れの良い仕事、の 自分から離れていく様は、 ニュアンスとして近いだろう きっと、離れていったなにがしには 手の温もりが残っているはず いつでも思い出せる 今生の別というわけでも無いはずだけど 手塩にかければかけたほど 思いの断絶を感じるのだろう 別れがあれば、出会いもある 春はそんな季節だった 日中の日差しの熱さと、 まだ鈴虫も鳴かない

          "手"塩にかけたものを、気持ちよく"手"放すこと

          "手"本を発行する

          お手本になるような先輩、上司になって 育てる側に立つときがきたか、と 考える今日このごろ 昔は【背中を見せて】スタイルだったかな 今はその背中をしっかり見てもらえないような ジェネレーションギャップも感じる インターネットやSNSが発達していて そこに【答え】を求めることも 少なくないはず 嫌な先輩に聞くよりググる それを聞くと寂しい気持ち (それで良いなら良いのだけど、、) コミニュケーションが枯渇していることから 目を背けてはいけないと思っている どんなにI

          "手"本を発行する

          "手"に余ることは分けてあげる

          自分の限界は自分で決める それは無理をすることではない キャパオーバーともいう状態は 他人の目にも余る 余るなら、必要とする人に 分けてあげることも良いのでは 余るって、二通りある 「余裕」と書いて ゆとりを表現する場合 「余剰」と書いて 過剰さを表現する場合 「手に余る」は過剰な状態 ついつい手柄が欲しくなってみたり ドヤ顔したくて無理をする もしくは、本当に誰にも渡せなくて 無理をするしかなくなる なぜ手に余るのか、 を根本から考え始めると、 割と沼に

          "手"に余ることは分けてあげる

          "手"工業というジャンルを

          工芸と工業の違いは何かと問われた ぼくはこの問いに立ち止まって考えてみた 正直、みんなが期待する答えを 持ち合わせていなかった ものづくりに携わる者として プロセスの違いとしか 言いようがないと思っている 出来上がったものや商品は どちらのプロセスを辿ってきたかで 価値が変わってしまうのか そうなんだとしたら、 大量生産を前提としたプロダクトは 悪なのだろうか 職人さんが丹誠込めて つくりあげたものにしか 尊さが宿ったり、愛着が湧かないのか そんな世の中なら寂し

          "手"工業というジャンルを