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人間万事塞翁が馬−17

入院・手術を控えて教えられた本当の美しさ

私は、数年前から、変形性股関節症という病でここ最近は、歩行も不自由になり、痛みも増してきたので最近は、安全を考えて杖を使っている。

2年半前のハワイでの交通事故で同乗していた妻を失い、1年前は16年間、一緒に過ごした愛犬を失い、そしてコロナ禍で仕事も大幅に減少とこの3年間、立て続けの思わぬ事態との遭遇に、毎日、強い喪失感と寂寥感を抱えながら生きてきた。

しかし、亡くなった妻や愛犬は、これから先、私が、学び、旅、仕事、音楽等に取り組み、少しでも明るく生きていくことを望んでいることだろうと考え、まずは、この1月26日、人工関節への置換手術を受けることを決意した。

1ケ月間を超える入院・手術、リハビリに取り組むことは、考えただけで憂鬱ではあるものの、ゆっくりでいいから杖なしで歩けるようになり、活動の対象と範囲を広げて気持ちを好転させたいという思いからであるが。

そんな中、先日、あるバスを利用した時のことである。

バスが動き始めた時、座っていた女子学生風の人が、私に「座ってください」と席をゆずってくれた。

「ありがとう。でも大丈夫ですよ。」と言ったら、その女性は、「すぐ降りますから、どうぞ。」と席を譲ってバスの降り口の方に歩いていったものの、下車したのは、私と同じ最終の停留所であった。

遠慮する私を気遣ってくれての言だったのであろう。

下車の際、私が、後ろから「ありがとうございました」と言ったら笑顔を返してくれた。

私は、その笑顔が「とても美しいなあ」と思った。

また、後日、バスの運転手さんが、老人をいたわりながら車内に導いていた。

それまで何の変哲もないと思っていたその顔に、美しさが宿っていた。

そして、私が降りる時に道を開けてくれた中年の人に軽く会釈したところ、会釈をしながら返してくれた顔に、瞬間的な美しさをみたように思った。

新聞も雑誌も、いかに綺麗に見せるかということに多くの紙面を割いているが、それは、化け方は教えても、中身からの美しさは教えない。

人間の一生の終わりに残るものは、自分がこれまでに獲得したものではなく、自分が周囲に与えてきたものなのかもしれない。

財産となるような年のとり方、肉体的成長は、終わっても、人間的成長はいつまでも可能のように思える。

入院・手術・リハビリ等辛い事態を控えている私であるが、「自分では変えることができない現実を受け容れて、少しでも自分の心が喜ぶような考え方」をしていきたいと。

有難いことに、教えられることばかりで心から感謝の日々である。

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