見出し画像

聖地巡礼――ひとり旅のススメ

ひとり旅というものが好きである。
若い頃は普通に友人と行ったりもしていたが、歳を取るにつれて何となく疎遠になり、今はもう夫を除き、誰かと旅を共にすることはない。

ひとり旅は、とにかく自由だ。
どこにどうやって行くのかも。行った先で何を観て、何を食べるのかも。
あるいは「何を観ない、食べない」と決めるのも。

それでは寂しくないのか、と聞かれることも時にはある。
確かに「いい景色や美味しいものは、その場で誰かと共有したい」という気持ちはごく自然なものだし、私自身、そういう気持ちはふんだんにある。
だがその至極のひとときを、誰に遠慮するこおなく心ゆくまで味わえるということが、ひとり旅の途轍もなく贅沢なところでもあるのだ。

私が初めてひとり旅を経験したのは、今から実に四半世紀も前のことである。
福岡と鹿児島にそれぞれ親しい友人がいたので、彼女たちに会うために九州を北から南へ縦断しようと思い立ったのだ。
時に1998年12月。ちょうど25年前の今ごろだった。

ところが福岡到着早々に、原因不明の発熱に襲われた。日頃、滅多に風邪を引かない、まして熱発など数年に1回という頑強体質だというのに、いったい何の因果だろうか。
優しい友人に心配されつつも、翌日私はふらふらと福岡を発った。

このまま一直線に鹿児島へ下り、さっさとホテルに入って休養するのが得策、と頭では判っていた。
だが私には、この旅で友人に会う目的とは別に、何としても行きたいところがあったのだ。

それは福岡から南下すること、約120km。
関ヶ原の戦いからわずか7年後の1607年、豪将・加藤清正が自らの領地に築いた熊本城である。
熊本城は1877年(明治10年)の西南戦争で、原因不明の火災により天守閣と本丸御殿を焼失した。その後1960年に元の形状に忠実に再建されたものが、現代に残る熊本城だ。

25年前の私が熊本城に熱い情熱を抱いた理由は、実は1冊の本にある。
池波正太郎先生の『真田太平記』だ。
全12巻の大作『真田太平記』は、信濃・上野こうずけ(今の長野県・群馬県)の小大名であった真田一族の生きざまを書いた、壮大な歴史小説である。
まだ ” 歴女レキジョ ” などという言葉すらなかった小学生の頃から真田幸村フリークだった私にとって、『真田太平記』はまさに座右の書とでも言うべき著作だった。

その中の第8巻『紀州九度山』では、関ヶ原の敗戦武将となり、紀州の九度山で蟄居生活を送る真田昌幸(幸村の父)が熊本城をひとめ見たいと熱望し、動けない自分の代わりに配下の忍びである奥村弥五兵衛を熊本に派遣する。
時の政権・徳川幕府に従いつつも、前の君主である豊臣家への忠誠も隠そうとしない加藤清正が、いざともなれば関東を迎え撃つ覚悟を秘めて築き上げたのが、この熊本城である。徳川と豊臣の手切れを期待し、再び返り咲きを狙う真田昌幸にとって、この城は自らの再起を賭けた希望の城でもあった。

奥村弥五兵衛は、この石神山へのぼって熊本城を望見したとき
(まさに、この城は戦うために築かれた城だ)
そのおもいを、さらに深くした。
大空の彼方には、阿蘇山が雄大な山容を浮かべ、しずかに噴煙を吐き、その山裾は無限のひろがりを見せ、眼下の熊本城につながっている。
熊本城の城郭は深い木立に包まれ、巧妙な石垣と櫓の配置によって、石神山の頂から見下ろしても、内部の構造をつかみとることが、
「ついに、できませなんだ」
と、弥五兵衛は、お江へ語った。
「ふうむ……さほどの城か……」

池波正太郎『真田太平記 第八巻 紀州九度山』新潮文庫 より引用

25歳の時にこの本を読んで以来、私はまるで真田昌幸さながらに、ぜひとも熊本城をこの目で見たいと熱望するようになった。
故・池波正太郎先生の筆の冴えもかくや、というところだ。
そしてついにそれが実現する……にもかかわらず、38度を超える発熱。
だが私は迷うことなく、JR熊本駅で下車した。これを逃せば、もう当分この地に来ることなどないからだ。

その日はとても気持ちよく晴れていた。まさに雲ひとつない、という青空が広がるその下に、熊本城はその堂々たる姿で静かに佇んでいた。
小説の中でも「見ただけでも背筋が寒くなるおもいがする」と書かれた、ぎっちりと隙間なく積み上げられた石垣は、確かに押し迫るような迫力をあたり一帯に放っている。

加藤家随一の老臣、飯田角兵衛の名を取った「飯田丸」を抜け、更に奧へ奥へと進むと、巨大なイチョウの木と共に大小の天守が連結した勇壮な天守閣が姿を現した。
青空の下に、墨絵から抜け出したかのような黒と白の威風堂々たる城郭を前に、文字どおり声も出なかったことを覚えている。

25年前に現地で撮った写真。
左下に当時の日付が入っている。

だが何かがおかしい。
城門をくぐり、石垣に囲まれた曲輪くるわを歩いている時から、なぜか違和感がつきまとう。そして天守閣にほど近いところまで辿り着いて、ようやくその違和感の正体に気がついた。

――人が、誰もいない。

平日の早朝だったせいもあるかもしれないが、それにしても熊本随一の観光地であり、熊本市民の憩いの場でもあるはずの城だ。
誰もいない、なんてことがあるのだろうか。

不審に思いつつも城へ近づいていくと、ようやく向こうから歩いてくる人の姿を発見した。自分より少し年上の、30歳前後の男性だ。
天守閣をバックに写真を撮ってもらいたかった私は、無遠慮にもその人を呼び止めた。スマホどころか、昔懐かしいフィルムカメラだから自撮りなんて不可能だ。男性には申し訳ないが、まさに千載一遇のチャンスだった。驚きつつも快く引き受けてくれた彼には感謝しかない。
その写真は、今も大事に私の手元に残っている。

無事に写真を撮ってもらった私は、彼にお礼を言うと、安堵して城の中へと向かった。

――暗い。そして寒い。
剥き出しの石壁や途轍もなく太い柱に押しつぶされそうな通路を通り抜け、ようやくのところで大天守の最上階まで昇り切った。ぐるりと四方を見通せる、さほど広くない部屋だ。
やはり人の気配はない……と思いきや、

「おお!」

と背後で微かな声がした。
よく見ると窓を背に、初老の男性がパイプ椅子に座ってこちらを物珍しげに眺めている。城内に入ってから、ようやく人に出会った。
と言っても、どうやらボランティアのガイドさんらしい。
地元の人と思しき男性は、困惑したように笑った。

「あのねえ、なんでか知らないけど、今日はだーれも来ないんだよ。わし朝からずーっとここにいるんだけど、今朝はあんたが最初のお客さん。こんなこと滅多にないんだけどね。あんたどこから来たの? ○○? へえ、遠くから来たんだねえ。今、この城はあんたのものだよ。この城まるごと貸し切りだ。得したねえ」

まるごと貸し切り!? 
予想もしない事態に仰天する私に向かって、はっはっと朗らかに笑った男性は、よいしょと立ち上がってこちらに近づいてきた。

「ほら、今日はいい天気でしょう。こっちの窓からはね、阿蘇が見えるんだよ。阿蘇、知ってる? 普段はなかなか見えないんだよ。よく晴れてないとダメなの。でも今日はよぉく見えるよ。こんなにはっきり見える日も珍しい。いいねえ、あんた、ほんとに運がいいよ。城は貸し切りだし、阿蘇は綺麗に見えるしね」

確かに彼が指し示す先には、遠く阿蘇山の蒼い山肌がくっきりと見えた。

「せっかく遠くから来たんだから、好きなだけゆっくりしていくといいよ。天守閣を独り占めできる機会なんて、まずないからねぇ」

ガイドの男性は、さも愉快そうに言うと再びパイプ椅子に座った。

私は熱のある頭で、しばらくぼんやりと遥か遠くの山並みを眺めていた。
かの加藤清正も、のちに熊本城主となった細川忠利も、みなこうして天守閣の窓から阿蘇の山々を眺めたのだろうか。
そう思うと、まるで自分が熊本城何代目かの城主にでもなった気がする。
その間天守閣に登ってくる人は、本当に誰一人いなかった。

だが三日天下ならぬものの十五分ほどで、私の城主モードは終わった。
いくら気分がいいとは言え、いつまでもただ窓の外を見ているわけにもいかない。
私はガイドの男性にお礼を言うと、再び急な階段を下りて外へと向かった。

さすがにその頃になると、城の内外に人の姿がちらほら見え始めた。その人たちとすれ違うようにして城の門を出る。
実のところ熊本城はもっともっと広くて、いろいろ見どころもあるのだが、天守閣の貸し切りという僥倖を堪能した私はすっかり満足して、あまり深く考えずに城を後にしてしまった。

私は最寄り駅までの約10分の道のりを、再び歩いて戻った。何しろ行きも来た道だ。何ら問題あるまい……と思ったのが運の尽き。
見事に、道に迷った。別に方向音痴というわけでもないのだが、やはり熱でぼんやりとしていたのだろうか。

結局最寄り駅まで30分以上かかってしまい、そこから更にJR熊本駅まで戻ろうにも、本来乗るはずだった特急はとっくに熊本駅を発ってしまっていた。
だが私は別段焦ることもなく「しょうがないなぁ」ぐらいにしか思わなかった。次第に上がってくる熱と予想外の僥倖が、完全に思考を弛緩させていた。

それでも何とか熊本駅まで辿り着いた私は、結局1時間後に出る次の特急に乗って、無事鹿児島に到着した。
ちなみにこの頃はまだ九州新幹線はなく、鹿児島本線の「特急つばめ」が九州を縦断していた時代だ。その名に相応しい、黒い車体のかっこいい列車だったと記憶している。

鹿児島で宿泊したホテルのある城山は、明治十年に勃発した西南戦争の重要な舞台だ。戦国時代と並んで幕末史の好きな私は、チェックイン後に性懲りもなく熱のある身でホテルを出て、ふらふらと山を下りた。途中で再び道に迷い、地元のタクシーにぼったくられたりもしたが(我ながら正真正銘の馬鹿者である)。

だが、それでも私は満足だった。
歴史探訪などという高尚なものからは遠くかけ離れた、単なるミーハーとしか言えないような旅の軌跡。熱は出すわ、道には迷うわという慎重さの欠片もないその旅の、だが何と楽しく、何と自由であったことか。

物語の舞台となった場所に、熱い憧れを抱いて足を運ぶ。今ならそれを ” 聖地巡礼 ” と呼ぶのだろう。
だが今より遠いむかし、少なくとも私のまわりには、そんな理由で旅をするということを理解してくれる人は皆無だった。
だから私は、熊本城に行きたい本当の理由を誰にも話すことはなかった。
だが『真田太平記』を遺した当の池波先生なら、きっと私の内心の望みを喜び、また理解してくださるのではないだろうか。

そして当時の私は、僭越にも思ったのだ。
あの雄大な城の天守閣が、ほんのひとときにせよ私に与えられたのは、地元で敬愛を込めて ” 清正公せいしょこさん ” と呼ばれる加藤清正の、「遠くからよう来た」という粋なはからいだったのかもしれない、と。

――2019年の熊本地震で、熊本城の屋根瓦や石垣が大きく破損したことは記憶に新しい。
だが熊本県民の強い願いを受け、2021年、熊本城の天守閣は見事に復活を果たした。櫓や石垣も含めた完全復旧はまだ先とはいえ、清正公も池波先生も、さぞご安堵なさったことだろう。

旅に出る理由は、人によって様々だ。
だが時には名所名物にこだわらず、自分の「推し」なるものをとことんまで追求するのも、また味わい深い旅になるのではないだろうか。
同じ熱を共有する仲間と行くのも楽しいが、可能ならばその強烈な憧れと達成感を思うぞんぶん我が身に浴び尽くす、ひとり旅の自由と贅沢さを味わってみてほしいと思う。

私たちはコロナで多くの教訓を得たはずだ。
人生は、世の中は、いつ何が起こるか判らない。
再び旅に出られるようになったことに感謝しつつ、それぞれ自分自身の「旅」を楽しめたらと切に願う。

そして最後に、ここまで読んでくださったあなたに訊ねたい。

――「あなたの聖地は、どこですか?」と。


#わたしの旅行記


お読み下さってありがとうございます。 よろしければサポート頂けると、とても励みになります! 頂いたサポートは、書籍購入費として大切に使わせて頂きます。