選ばなかったこと/もう帰ってこないもの

 こんなはずじゃなかった人生を生きていくことの苦痛、それについてはもはや語るべくもない。しかし、「こうであれた」はずの人生、すなわち、選択における責任が帰属する対象がもはや自己でしか有り得ない現在を受け止めることは、もはや人間には苦痛などを越えて不可能な事態となるのではないか。つまり、閾値を超えてしまった痛みは「しょうがなかった」という言葉に変換され、まともに苦しむこともできないような。そんなことを思う。

 ここを越えたらもう引き返すことのできない分水嶺。時折、私たちはそういった点に遭遇する。そして、進む先を誤ってしまった時、こんなはずじゃなかったという人生を歩んでいく以上の、もはや苦痛を苦痛として感じ取ることができない感覚がそこにはある。まるで現実を歩んでいないような、そんな実感のなさ。そこに人は居続けることは、きっとできないのだと思う。現実感の欠如は、生きるための根拠を静かに、痛みなく根底から奪い去っていく。

 死を望んで自殺することは、間違いなく悪だ。これ以上ない愚かな行為であると信じている。それは僕が、人の生は自分自身のためにあるものではないと確信しているからだ。けれど、確信なく死ぬことについては、これはもう否定することが、どうしてもできない。どう足掻いても、もうどうすることもできない取り返しのつかなさ。その中で生きるということはできなくて、死にたいという感覚すらもなくなってしまったのなら、そこにおける死は偶発的な崩壊、自然的な消失となんら変わらないだろう。


 けれど、なにもかもなくなってしまったとしても、やっぱり決定という作用、すなわち死を選ぶという行為だけは、絶対に赦すことができない。この思いは明らかに矛盾していて、それはやっぱり死ぬからには一生懸命生きてからでなきゃ、という当たり前の結論にしか帰着しないというか。甘い麻痺に逃げ込むことを正当化できない自分との折り合いはどうしてもつかないというか。理論化するには程遠い。よくわからんね。以上。

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