『シン・エヴァンゲリオン』感想

 『シン・エヴァンゲリオン』の感想。
 実を言うとこれまでちゃんとエヴァを観たことがなくて、ゴールデンウィークに旧劇~Qまで一気観してからシンを観に行ったので、昔から追ってきた人とはいろいろと思うことに差異があるかも。
 最初に言っておくと僕はシンエヴァおもしろかったなと思ったので、そうでない人は閲覧注意。
 たぶん随時書き直していく気がする

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・旧劇についてざっくり
 テレビシリーズと旧劇場版は切り離せないと思っているので1セットとして話を進めます。
 自意識の話やら内省の話やらうんぬんかんぬんというのは幾度となく本編の中で繰り返されているので見ればわかる話だろうけど、それを徹底し、他者が自己規定のキーとなる事態は認めつつ、それに伴う恐怖は損なわない、つまりコミュニケーションは全面的に素晴らしいんだという文脈に回収させない姿勢が徹底されているのはすばらしかったなという印象。特に劇場版『まごころを君に』なんてタイトルなんか秀逸で、まごころを君に届けた結果が首絞めからのアスカ(=女性、自分を否定する存在、すなわち絶対的な他者)の拒絶である。
 内省を潜り抜けた先には必然的に固有の他者の存在というものが現前してくるわけで、シンジ君もその問題を前にしたときに自ら望んで自己と他者がいる世界を選択するのだけれども、結局は他者は必要だが固有の他者に接近することは恐ろしいという(リアルな)結論に回帰してしまう堂々巡りが展開する。概念としての他者と固有の他者との間には、明確に飛躍がある。
 人類補完計画という自己=他者の構図を成立させることで自他関係を消去してしまい、あらゆる苦痛を諸共に消し去ってしまえという思想の到達点はシンジ君によって否定されつつも、現実の関係に回帰した途端、その回帰に至るまでの懊悩、苦痛、あるいはそれよりもっと前から存在する苦しみの総て、は他者へと共有されないという冷たい現実がまざまざと描かれているわけである。だから、旧劇というのはまったくもってコミュニケーションとかそういう話ではない。それはニアリーイコール母である綾波と、絶対的な他者として君臨するアスカという二極化したヒロインにも表れているとおり、結局はシンジ君がエーリッヒ・フロムやジャック・ラカンなどなどが主題とした自己と他者が分かたれていない段階を抜けていくことへの不安、それでも他者抜きには生きることのできない恐怖という話に繋がっていくわけで、コミュニケーションという視座から話を始めるにはそことは別建てで議論を展開しなければならないのである。この自他関係へと踏み込んでいく、すなわち、他者が存在するという事実を受け容れることから更に進んで、固有の他者の存在そのものを前提としない限り殻の外の話ができないというのは当然であって、その構造に忠実であるからこそ内省に帰っていかざるを得ない(んだと思う)。


・序~Qまでざっくり
 破の途中からものすごい違和感があった、というのも、エヴァは結局レイの話、すなわち上述したとおり、延々と自意識やら承認やら家族やらの話に終始していて、その繭から出ない(出ても帰っていく)というのが基本スタンスだと思っていたからである。
 この問題系はシンジにとっての絶対の他者であるアスカにしてもそうで、旧劇でアスカが覚醒する原因は彼女の母親であるわけだが、それまではアスカも上記の問題系に(母親へのトラウマという形で)囚われていたと言える。しかしアスカは他者たる人間なので、そこから抜け出た覚醒後には特に鮮烈な形でシンジの前に君臨するわけなのである。
 一方で、新劇は自意識やら他者へ侵食する/されるとかいう問題系からは遠ざかっており、それがQからは特に明確に表れている。シンジは相変わらず内省という問題系に終始している一方で、その周囲の人間たちは(一部を除いて…ゲンドウとか)明らかに異なり、もはやそういった問題系に囚われていない(先に大人になっちゃったからね)。だからこそアスカがシンジを「バカでなくガキ」と評すわけだし、当然シンジ君はこれについていけないのである。
 まあきちんとキャラクターの話をするのであれば、内省という問題系から離れたときコミュニケーションの問題が前景化してくるという流れは、話の作りとしては正しすぎるくらいに正しい。つまるところ、新劇というのはこれはもう疑いようがなく固有の他者の存在を前提とした、コミュニケーション/ディスコミュニケーションの話なのである。これまではシンジ君は自他関係に絶望したとき自己の世界に回帰すればよかったのだが、新劇はもはやセカイ系の話ではないので内面から世界を変えようとする試みは不可能となる。だからこそ、ヴィレの面々はシンジの言葉に耳を貸さないし、当然槍で世界をやり直すなんてこともできないのである。挙句の果てには、世界はやり直せないわカヲル君は喪うわで失意の底にある時に、マリに「ついでにちょっとは世間を知りな!」などと言われてしまう。

(ここまでの雑感)

・というわけで、旧エヴァだと、自意識が云々という感じでキャラクターの記号的な性質からそこに蟠るディスコミュケーションの必然性は説明できていたのだが、Qではキャラクターが健全に(現実的に?)人間しているのでそういう説明ができず、作中のディスコミュケーションは必然性を伴わず、悲劇のための悲劇という印象はどうしても残る。そしてその悲劇も、「ディスコミュニケーションこそが悲劇を産み出す」という悲劇の構造的・根本的特徴に忠実に作られているので、観ていて線形に理解できてしまうし、わけがわかりすぎてしまうのである。
・アンチATフィールドが単なる一兵器として登場しているように(今までは人類補完計画を為す上での心的ガジェットだったのに)、なんかもう自意識とか承認とかそういう話ではないのだなあという感じ、ATフィールドも心の壁だったりそうじゃなかったり
・真ん中が描きづらそうだったなあという印象。たぶん旧だとここで自意識がどうたら承認がなんたらという話になって謎の心象風景が延々と続いたり電車が出てきたりということになるんだろうけど、今回はそういう問題系から完全に離れているので心象風景がほとんど使えず、廃墟でカヲル君と一緒にピアノを弾くというシーンに。(これはこれでヨシ)


・こっからシンエヴァ
 ざっくりと旧劇が内省の話、序~Qまでが現前してくる他者、それから逃れられない自己というのが大筋の話なのであった。ここから、他者という問題がより際立っていく。上でも触れたとおり、シンジ君はもはや内面に回帰することができず、容赦なく他者に晒されていくこととなる。心を閉ざし、あらゆる反応をすまいとするのだが、しかしここは現実の、他者がいる世界なのでそういった生き方をすることはもはやできない。

 さて、そのような世界の中で生きていくための方策として、シンジ君が恢復する過程、つまり、Qで前景化したディスコミュニケーションをコミュニケーションにより克服していく様が描かれていく。具体的には、世界と折り合いを付け、他者の存在を前提として自己を成立させている大人によって、彼らに感化されていくことでディスコミュニケーションの悲劇が埋められていくというわけである(だからこそシンジに対して適切な距離を持てる人間、すなわち「成長」したトウジやケンスケと言ったキャラがどうしても必要だったわけだ)。そうして、一つの飛躍が達成される。

「何もかも僕が壊したんだ、もうなにもしたくない、話もしたくないんだ、もう誰も来ないでよ、僕なんか放っておいてほしいのに…なんでみんな、こんなに優しいんだよ」
「碇くんが好きだから ありがとう、話をしてくれて」

 この流れはたぶん賛否両論があるのだろうなと思うのだけれどそれはここでは脇に置くとして(注1)、透徹している点としては「私」が「私」であることを他者によって認められることによって、「私」は「私」であることを認めることができるということであろう。
 それはレイにとっても同様で、道中、レイがレイとしての固有性を、言語行為を通して獲得する過程が描かれていく。自己の中にある感情、そして自己そのものに対する名づけの儀式を通過することによって、存在の輪郭を得るのであった。命令に従うことしかできなかった少女が、自己の存在の連続性、それが他者に与えられる影響を知ることで、未来に向けられた願いを手にするのである。

「…今の感情は最初からNERVに仕組まれたものよ」
「そう。でもいい。よかったと感じるから」
「ここにいたい。そのために名前が必要。」
「ありがとう、名前考えてくれて。
 それだけで嬉しい
 ここじゃ生きられない
 けどここが好き
 好きってわかった、うれしい
 稲刈りやってみたかった
 ツバメもっと抱っこしたかった
 好きな人とずっと一緒にいたかった」

 結局シンジくんは「この」レイの死を受けるのだが、彼はもはやそこで再び内省に帰ることが何らの意味をも持たないことを知っている。だから彼女から返却された音楽プレーヤーを握りしめ、泣きはらした瞼になりながらも理不尽に屈することなく、ヴィレの船に戻ることを望む。

 ここにおいて、旧劇にて徹底されてきた内省のスタンスを抜け出て、「エヴァに乗る」という行為の意味は反転する。自らの存在価値を証明するものとして縋りついていた、すなわち自分を守ると同時に壊すものであった「乗らざるを得なかった」エヴァを越え、ほんとうの意味で「自らの意志でエヴァに乗る」ことを選択するのである。
(注意しなければならないのは、他者がいる世界はすばらしいからそっちに行くとかそういうことではない。ここにあるのは自己しかいない世界/他者がいる世界の対立であって、自己しかいない世界から抜け出るということは必然的に他者がいる世界に踏み込まざるを得ないのである。)

「ミサトさん、僕が、エヴァ初号機に乗ります」
(中略)
「綾波の消えた帰り道、加地さんに教えてもらった土のにおいがしたんだ ミサトさんの背負ってるもの、半分引き受けるよ」

 そして、他者がいる世界で生きることとは他者の存在を、その願いを引き受けなければならないということだ。「自分が生きる理由」(大切なもの、喪ってはいけないもの)が無くなったとしても、他者がいる世界に生きている以上は、それが「他者が生きている理由」を諦めていい理由には、決してなりえない。

 これを受け、ユイ‐ゲンドウとレイ‐シンジの関係は全く異なったものとなる。前者は内省に回帰するが後者は喪失を受け止める。上述のとおり、「エヴァに乗る」という行為の意味はここにおいて180度転換し、ヴィレの船に乗った後の目覚めの意味もまた同様の変容を遂げる。彼はもう、内省の世界から這い出た一人の大人となったのであった。

 さて、他者のいる世界へと這い出たシンジくんはこの世界最後のガキ、ゲンドウと対峙し、戦いを通して彼の内面に触れることとなる。ゲンドウはアディショナルインパクトを実行し、単一となった魂の世界でユイを探し出そうとするが、彼女へ至ることはできない。

「父さんは、なにを望むの」
「お前が選ばなかった、ATフィールドの存在しない、すべてが等しく単一な人類の心の世界 他人との差異がなく、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない 浄化された魂だけの世界」「そして」「ユイと私が再び会える 安らぎの世界だ」

「私は人とのつながりを恐れた。人であふれる世界を嫌った。幼いころから孤独が日常だった。だから寂しいと感じることもない。だが、世間にはそれを良しとしない人間もいる」

「だが、ユイと出会い、私は生きていることを楽しいと感じることを知った。」

「ユイを失った時、私は、私一人で生きる自信がなくなっていた」
「初めて孤独の苦しさを知った」
「ユイを喪うことに耐えることができなかった」
「ただ、ユイの胸で泣きたかった」
「ただ、ユイのそばにいることで、自分を変えたかった」
「ただ、その願いを叶えたかった」
「私は、私の弱さゆえにユイに会えないのか、シンジ」
「その弱さを認めないからだと思うよ」
「ずっとわかっていたんだろう、父さん」

 弱さ、すなわち他者がいなければ生きられないという恐怖ゆえにユイと会いたいという願望が生じるわけで、その弱さを認めないということとユイに会いたいという願望は根底から矛盾する。その矛盾から目を逸らしたまま他者を求めるとするならば、すなわち他者のいない世界で他者を求めようとするならば、それは自分の内より他者を探し出すほかなく、ゆえにこそこの試みは失敗が運命づけられているものである。単一な魂の世界で自分以外の魂を見つけ出すことなど、できるはずもない。だからこそこの弱さがあることを認め、シンジに向き合った時、「ユイがそこにいたという証」が確かに在ることに気づくのであった。ここからアスカ、カヲルくん、レイもまたシンジと同様に内省の世界に別れを告げ(注2)、他者のいる世界に進んでいく。この辺の流れは特に美しかったなと思う。


 ただ、前述したとおり、そして後述するとおり、ここに現れる思想や方法論についてはたぶん賛否両論があるのだろう。けれど、なんというか頑強に真面目だったなと感じている。それは綾波/アヤナミの問題系をパラレルに扱わないところとか、惣流/式波の必然性とか、シンジ/ゲンドウの相剋とか。特に、シンジくんに「その弱さを認めないからだと思うよ」というセリフを言わせるところとか。そういうものを切って捨てないところが正直好きだった。だからこそ、「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」をするには理屈の上でもこれしかなかったと思うと同時に、その真面目さにも説得されてしまったみたいな。そんな感じです。


(注1)
 なんで賛否両論があるだろうなと思ったかについて少し。
 もちろん、(ここが重要なのだけど)旧エヴァを踏まえて考えるのならなおさら、健全な大人によって健全に感化されていく方法が全面的に正しいかと言えば、正しすぎると言えてしまう危険性はあるだろう。延々と自意識の話をしていた、他者の存在を認める以前の段階から、一気に「健全な大人」(そんな人間は今まで皆無であったことは言うまでもない、みんなかろうじて大人やってる人たちばかりだったので)を導入し「成長」によって止揚に持ち込むのは、ある種の洗脳にも似たイメージをも伴ってしまう諸刃の剣である。すなわち、異常を異常のまま保存するのではなく、近代人として健康になるということ=成熟した大人になることをもってして救済されることという図式を導入し、異常を「治療」することによって近代的主体を形成し、人間として健康になることこそが救済である、という見方をも生んでしまう危険性は否定できない。
 ゆえに、現に健康になった人間、もしくはなろうとする人間以外にこの方法論は届かないのかもしれない。そのことを否定することはできず、だから、提示されているのは普遍的な思想とか、真理とかそういったものには成り得ないのだと思う。端的に表すなら以下のような反発を生む可能性もある。

本人の意思を尊重する、という形での搾取がある。そしてまた、本人を心配する、という形での、おしつけがましい介入がある。 
―岸政彦『断片的なものの社会学』

 ただ、健全な大人という道具立てを導入したことには意味があると思っている。後悔と諦念と苦しみを放置すべきという話なのではない。苦しみを一旦保留して、大人のふりをすることには少なくとも意味があるのかもしれないという話なのである。そうすることで救われる人間がいて、そうすることでいつか自分が救われる可能性があるということだ。この方法は内省の世界に居続けたままでは提示できなかったものであることは言うまでもない。

(注2)
ゲンドウが電車から去った後のカヲルくんはちゃめちゃによかった、シンジくんの幸せを一心に願ったカヲルくんもはやパパじゃん 加持さんの「あとは彼に(シンジ君自身が幸せになることを)引き継いでもらってもいいでしょう」って言われて引退したパパ友同士で歩いていくの最高すぎかよ シンジくんの幸せを願って自分が幸せになりたかったカヲル君がシンジくんから手を伸ばされるの最高じゃん カヲシンだと思ってたら最後シンカヲになった 新境地突入しちまったよ

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