他人に死ぬなと言える理由って何だろうみたいな

 親しい人間が死んでしまうことにはなにかしらのネガティブな感情(あえて悲しいという言葉は使わない)を抱くことがほとんどだと思う。それは少しでも知っている人間の場合でもそうで、程度の差こそあれ、なにかしらのプラスではない感情をもたらすことが殆どだろう。それは憎い相手に対してのものとなると反転するわけだが、しかし、なんの感情も抱かないという事態はありえないんじゃないかなと思っている。この過程が正しいとするならば、「生きる意味」みたいなものを問うてみるときに、この無関心というものが存在しないということこそが足がかりになるんじゃないかなと思う。

 「生きる意味」の根拠を客観的・外生的要因に求めようとするとき、必然的にそこには相応の危険が伴う。例えば「自分はつらいけれど子供のために生きなければ」とか、「神に背かないために自殺はできない」とか。これらに共通して起こっているのは、すなわち全面的な自己の委譲という事態であろう。自己の存在理由を外部へ丸ごと託すことで、存在の不安定さを補強するという構造を取っている。
 ただし、この「全面的」な委譲というものは、委譲した対象が消えてしまうとき自己の存在もまた足元から崩れ去ってしまう危険性、脆弱さ、そしてそれに由来する窮屈さというものを含みこまざるを得ないのではないか。子供や恋人がいなくなってしまったから自らもまた消滅を選ぶ、神という概念をrelianceできなくなって実存的危機に陥る、といったような事態は容易に想像できる。すなわちこういった形態での生の肯定は、固いが脆く、柔軟性というものを生から奪い取ってしまうのではないかと思う。

 では柔軟性を持った生を実現するためにはと考えた時に、依存先が複数あればいいのかというとそうではないだろう。いや、正確に言うならそれを何の疑問もなく実現できる人間ならいいのだろうけど、たぶん倫理的、あるいは法的・政治的な意味で許容されないラインを踏み越えてしまう危険性を孕んでしまうことは無視できない。それはそのまま、排斥を伴う事態だからである。

 はてさて、私たちはどのようにして自己の生に向き合えばいいのだろう?私たちが社会に生きる存在である以上(少なくともこれを書いている私・これを読んでいるあなたは世捨て人では有り得ないのだからそうであろう)、自意識だの内省だのといった問題系からは一旦離れ、他者が存在することを前提としそれを探っていく必要がある。ここで、なにを足掛かりにしていこうと考えた時に、冒頭の無関心というものは存在しない、すなわち、シャーデンフロイデという正反対の事態があることは否定できないけれども、他者の消失に対し我々が程度の差こそあれネガティブな感情を抱くという仮定が強力な前提になってくる。

 このネガティブな感情の中で、程度の弱いもの、なんとなく悲しいといったものを、仮に「後味の悪さ」と記述することとしよう。この後味の悪さは、誰もがそれを抱くという前述の仮定に基づけば、相互的であることが保障されている。ゆえにこそ、これは生きる意味、理由でありうる。なぜかと言えば、これは「なんとなく後味が悪いから死なないでほしい」という呼びかけに繋がるわけで、それはそっくりそのまま「なんとなく後味が悪くなる人がいるから自分は死ねない」という言を発することを可能にするからである。これは全面的な自己の委譲という事態とは異なり、柔軟に緩やかに、生きるという意味を問うた時の答えとなってくれるのではないか。

 さて、以上の考え、すなわち「後味が悪い」という概念を端緒とした緩やかなつながりによって生を肯定する方法は、僕の中で多分これは正しいはずだという感覚的な納得があるのだけれども、もちろん種々の問題があるだろう。ぱっと思いつくだけでも、

①無関心というものは存在しないという前提は全くもって普遍的とは言えないのではないか
→これを論駁するのはなかなかに厳しい。「俺は誰が死のうと何とも思いません」という反論であればそもそもこの文章で書いてることにあなたは悩んでないですねそいつは何よりですと言えるのだけど、「俺は誰からも何とも思われないと確信しています」と言われると、少なくとも俺はあなたが死んだらなんとなく悲しいけど!?としか言えなくなってしまう。要は、寄り添うという作用の欠如がどこまで納得を阻害するのか未知数なのである。この辺は論理の緻密化に頼らざるを得ないのだろうか?しかしハードルは厳しいように思える。なにより厳密に論理性を追求するという行為に僕の興味が全く湧かない

②ハードかつシビア
→①にも関連することだが、密接な人間関係を望む人間にとって、「緩やかな」つながりは自己の存在を肯定する強度として十分足り得ないだろう。他者が喜び・悲しみという感情の源泉であることは否定できないと考えているので、そのダイナミズムに反抗することができるかというと厳しい。捉え方によっては、つながりの柔軟化は他者中毒からの解脱といった要素も含みかねない。それができない人間にとっては、緩やかなつながりの肯定は逆に自己の欲求を束縛するハードかつシビアなものとならざるを得ない。

③シャーデンフロイデを消去できない
→「私は死を望まれている人間なのです」と確信している人間が現れたとしたら、①よりもひどいことになるかもしれない。場合によっては言を発することで、全面的な委譲を産んでしまうかもしれない。

といった問題点が考えられる。


 そもそもなんでこんなことを考えてるのかと言えば、遥か昔から死にたい死にたい言ってる人間に対しては漏れなく、うるせー俺は生きていてほしいと思ってるのに無視すんなアホ!という憤りがあったからである。だから、死にたい言う人間に無視されているという至極自分勝手な怒りが端緒なわけで、そう振り返るとなんかこの議論がそれの押し付けじゃんと言われるとすべてが灰燼に帰すのかもしれませんけど自分の中で強固に納得してしまっているしその辺はまあいいです。以上。

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