『神様になった日』感想


 TVアニメ『神様になった日』の感想。古き良きエロゲの文脈そのもので良かった。個人的にはちょっと尺余り感があったので、2時間くらいの短編アニメに収めた方がより良かったのではないかな…という印象(クールものにすると、放送の時間的ラグや表現の方法によって作中のガジェットが雑味になりかねないので)。以下雑考。



 当然のことながら、と言うべきか、我々の意志と世界とは本質的に無関係である。物に躓けば転びたくないとどんなに思っても重力には逆らえないし、どれだけ働きたいと思っていてもその切実さの方は面接官は考慮してくれない。このようにして、物理的な次元であれ心的な次元であれ、我々の意志は容易に冷徹なシステムの前に屈してしまう。そのような理不尽とは、その無関係性ゆえにそもそも闘うことそれ自体が許されず、一方的に蹂躙されざるを得ないものだからである。

 だがなによりも問題なのは、その無関係性それ自体にあるのではなく、我々がそこに関係性を設定してしまうことこそにある。例えば、私たちの生/死は決定的に断絶しているにも関わらず、そこには容易に犠牲の論理が侵入し、互いを架橋してしまい得る。どういうことかと言えば、人の死を世界や国家、あるいは民族といったものを媒介とし関係性という橋を築き上げ私たちの生の直中に位置付けてしまう論理は世界中に存在するというのは最たる例であろう(ex.「お国のために死ぬ」)。倫理的階層の中でより上位にあるもののためならば下位のものをもってして贖ってもよいというのはよく知られたフィクションであると言える。

 このようにして「設定」された関係性は、死という現実を人の生にとって意味あるものとすり替え、生者の物語に死を取り込んでしまう。すなわち、生きていること自体にある種の「罪」(罪悪感と言った方が分かりやすいだろうか)を付きまとわせると同時に、それが連鎖してしまえばその罪を贖うために、「死ぬ必要はなかった」と言えるはずの死を「死ぬ必要があった」死に歪めてしまうようになっていく。このようにして、妄想の因果から産まれた「死の意味」は人類へ伝播していくとともにその連鎖の作用によって、犠牲を容認する危険な思想を安易に受け容れる土壌を作ってしまうのである。哲学者ウォルター・ベンヤミンはこのような妄想の「罪」の連鎖、すなわち意味も理屈も存在しない理不尽(繰り返すが、左記の例で言えば生と死とは現実の位相において徹底的に無関係である)に対し虚構の意味を与える作用を「神話的暴力」と呼び、それと対置する形で「罪」を取り去るものを「神的暴力」と呼んだ(注1)。

 いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、贖わせるなら、後者は罪を取り去る。
―――ベンヤミン『暴力批判論』

 例えば第5話。伊座並と伊座並父は伊座並母の死以降、それに心を囚われてしまう人生を送ってきた。父娘共々、母を置いて幸せになることを選ぶことができず停滞した日々を過ごしていたのである。正者と死者の断絶は絶対であるがゆえに、死者の不在により作られてしまった空白(厳しい言葉を使うなら、妄想の因果)はいかなる生者によっても埋めることはできず、ゆえにその空白を取り除くのは、それに別れを告げる宣言でしか有り得ないのであった。伊座並と父は、「これを見終えたら。2人はお母さんのことを忘れて、このビデオメッセージを処分しなきゃならないからです。」という母からのメッセージビデオの、決して見ることができなかったその続きを遂には視聴する。

さて。私からのメッセージは、次で最後です。

お父さんのことだから、いつまでたってもぐじぐじとお母さんのことを考えていそう。ねえあなた。杏子もそう。ず〜っと元気をなくしてない?

それは一番避けたいの。なので、ここでついに!完成した大魔法を杏子とお父さんに披露します!

では!大魔法“幸せにな~れ!”
この魔法にかかると…私のことは忘れて、2人は前を向いて歩きだす。これで私は赤の他人です。このビデオメッセージは処分してね。
―――伊座並母のセリフより抜粋

 ここにおいて、母の死という神話的暴力の嚆矢は、彼女の最期の言葉という神的暴力の発露(「忘れなければならない」という言葉はまさしく暴力というに相応しいのではないだろうか)によって拭い去られることとなる。重要なのは、死者からのメッセージが届けられたから彼女たちが救われたのではない(そうであったなら、ひなからの電話だけで描写としては事足りる)。想い出が、幸せな記憶のその性質が肯定されたからこそ、罪が取り去られたのである。

 いずれにせよ本質的であるのは、あらゆる世界の理不尽(に虚構の意味を与える作用)=神話的暴力は、想い出(による現在の生の担保)=神的暴力をもってして対抗することができるということである。それは以下のセリフに象徴される。

「良い思い出はないのぉ。そんなのがあれば、人は幸せでいられるんじゃろう。」
―――ひな

 この物語はあらゆる意味で、神的暴力によって神話的暴力を取り去る物語であった。第9話において「生かしておくのは危険」という権力の要請によってひなが脳内のチップを取り除かれ、「本来そうであった」ようになってしまうのは神話的暴力である(世界を滅ぼし得る技術は単にひなを生かすための手段であり、彼女を犠牲にせずとも世界は変わらなかったのではないだろうか?しかしその可能性は「虚構の意味を付与され」駆逐されざるを得ない)し、それによる疑似的な死は彼女とのかけがえのない想い出、そしてそのかけがえのなさを共有していたという事実によって越えられ、ラストの主人公のセリフ「これからもひなと共に生きていく」に繋がっていく。本質的に意志とは無関係であった世界の悪意は、神話的暴力は、このようにしてそれを拭い去る想い出、すなわち神的暴力によりその連鎖を止めることになるのである。それを止められなかった世界、すなわちあくまでひなを夏休みに出逢ったひなのまま救おうとし、神話的暴力が連鎖してしまった世界が主人公妹の映画において表現されているのだと思う。彼女が作った映画のラストにおいては、ヒロインの犠牲を否定し世界の終焉を選ぶ結末が描かれる。重要なのは、映画の冒頭において強調されているのが「世界の崩壊」の原因はわからない、ということであり、それを支えるシステムを永らえるためにはヒロイン(=ひな)の犠牲が必要、となるが、その理由までは全く説明されない。単に、「纏っている精霊の数が多い」というものに留まるのみであり、彼女の犠牲と世界の崩壊の二者択一を支える、その根本の論理は全く不明のままなのである。しかし、それを真っ向から否定したとき―――すなわち、「神話的暴力」に対し「神話的暴力」を以てして対抗したとき―――実際に世界は崩壊する(注2)。ではどうすればよかったかといえば、これは問題の立て方からして間違っているのであり、そもそも個人か/世界かの二択など最初から存在しない、妄想の選択肢なのである。それは映画の話についても、単に精霊の数の話で言えば誰かの死を前提にせずとも解決できたであろうという明らかな粗雑さにも表現されているだろう。だが作中の人物は皆その因果性に囚われる。だからこそ、この映画のタイトルは「Karma」なのである。


 あらゆる世界の理不尽が襲い掛かるとき、我々はそこに理由を求め、駆逐しようとする。それこそが、理不尽に対抗する最も安易な解決方法に思えるからである。だが、その理由とはフィクションであり、その虚構が、神話的暴力が連鎖していった果てに辿り着くのは、自己を殺すか/他者を殺すかの選択があたかも二者択一として捉えられてしまうかのような、歪んだ世界なのであろう。だが、理不尽なシステムの理不尽性を安易な形で―――我々に容易に理解されてしまう形で―――解体し解決するのは単に問題の矮小化を引き起こすに過ぎず、ナンセンスであるとしか言いようがない。今ここにある大切なものが踏みにじられた現実の、その理由を解決のために求めるのではなく、大切な想い出をこそ神的暴力としてふるい、神話的暴力の連鎖を停止させること。それができるようになったときこそが、世界の理不尽から解き放たれた、まさしく「神様になった日」と言えるのではないだろうか。


以下雑感とか注釈とか。

・(注1)ベンヤミンは「神話的暴力」の対概念として「神的暴力」を引っ張り出していて、それ自体の独立した明確な説明は為されていないのもあって例によって牽強附会の独自解釈になってるので真似しないでね

・(注2)ひなを救おうとするために、ひなのチップを「使って」いたかもしれないしね

・OP「君という神話」は文句なしに良かったです。めんどくさいから説明は省くけど、神話的暴力のその最初は法措定的な暴力ではなく、無作為な神による暴力なのです。

・主人公が記憶を失ったひなを取り戻そうとするも、悉くうまくいかないのもよかったなと。ただちょっと長かったな…。冒頭でも少し触れたけど、色々と過剰だったところがあるので短編アニメだとすっきりしていい感じになるなあというのは個人的な意見。

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