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改:本荘ごてんまりの創始者は誰?〜あなたの知らないごてんまりの世界〜

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

わたしはかつて、「本荘ごてんまりの創始者は誰?」というタイトルでこちらの記事を書きました。

しかしそのとき、わたしは重大な勘違いをしていました。
上記記事でごてんまりの創始者は複数いて、その創始をめぐっていわゆる「ごてんまり騒動」が起きたと述べましたが、そこで議題にあがったのはあくまで”ごてんまり”であって”本荘ごてんまり”ではありませんでした。
「ごてんまり騒動」、つまり田村・石塚による市長宛の抗議文は昭和37年8月12日のこと。
そして”本荘ごてんまり”の最大の特徴とも言える、まりの左右と下方の三方に房のついたまりが開発されたのは昭和39年頃のことです。
つまり「ごてんまり騒動」が起きたときの本荘のまりは、三方に房の付いたまりではありませんでした。

では、三方に房の付いたいわゆる”本荘ごてんまり”の創始者は誰なのでしょうか?
それは斎藤ユキノ(田村正子)さんです。
由利本荘市の観光協会の紹介にも書いてあるのですが、まりの三方に房を付けることを考案したのは斎藤さんのグループです。

https://yurihonjo-kanko.jp/yrdb/introduce/


本荘ごてんまりの発展
(中略)斎藤さんらのグループが作った手まりは秋田市の「田中企業」が買い取ってお土産品として売られることになりました。
「せっかく本荘の人たちが作っているのだから“本荘ごてんまり”としたらどうか」ということで「本荘ごてんまり」の名前が誕生しました。
斎藤さんらは、まりの三方に房をつけるなど、伝統にこだわらない自由な発想のまり作りをし、次第にそれが広まり、伝統の技と自由な発想が融合した全国でここだけという意匠の「本荘ごてんまり」となりました。

高野喜代一はもっとはっきりと、「いま本荘まりの特徴だといわれている三方に房を下げることを考案したのも田村さんだ。」(注1)と述べています。
もう少し詳しく、斎藤ユキノさんのまりを見ていきましょう。
昭和39年2月10日『秋田魁新報』の「本荘の”ごてんまり”海外からも注文殺到 郷土の民芸品 育成の機運高まる」というタイトルの記事では、「ごてんまり同好会」(本荘市後町 田村正子さん十人)のまりを紹介しています。
その記事ではこのように書かれています。

本荘市の民芸品として古い伝統をもつ”ごてんまり”が最近静かなブームを呼んでいる。赤、青、黄、黒、緑などのリリアンを使って器用にししゅうされたマリは室内の装飾用から壁かけ、愛用車のマスコットに至るまで広く愛用されている。


これはいま私たちがイメージする、本荘ごてんまりそのものです。
本荘ごてんまりは三方に房が付いているので、ポンと置くのではなく壁にかけたり天井に吊したりして楽しみます。
車内に小型の本荘ごてんまりを吊している人もよく見かけます。
記事の写真には三方に房が付けられているものと、下一方に房が付けられたものと、2種類のまりがあります。

では、斎藤ユキノさん以外のまりはどのようなものだったかというと、昭和37年5月23日『秋田魁新報』の記事では大門トミエさんが紹介されています。
下記に引用します。

製法は、シンに山菜のゼンマイ綿を使う。これは直径三センチから四センチぐらいにかたくまるめ、綿糸で球形にかたくしばりあげ、その上を色とりどりの絹糸いまではこれにレース、毛糸などで幾何学模様などをあみあげるもの。

あれ? と思うでしょう。
私たちの知っている本荘ごてんまりは、芯にはゼンマイ綿でなくもみ殻を使いますし、「直径三センチから四センチぐらいにかたくまるめ、綿糸で球形にかたくしばりあげ」るのは分かるにしても、(ふつう本荘ごてんまりはもっと大きなサイズですが)「色とりどりの絹糸いまではこれにレース、毛糸など」を使うのは、それはもう本荘ごてんまりではなくて別のまりの話では、と思うところです。
本荘ごてんまりで使う糸と言えば、何と言ってもリリアン糸です。

この芯にする材料や糸の違いについては、『企画展 本荘ごてんまりと全国ごてんまりコンクールの歩み』(注2)にこんなことが書かれています。
「最初の頃、手まりの芯はゼンマイの綿を丸めて木綿糸をまき、絹糸や毛糸などで模様を刺していました。」
「入手が困難なゼンマイ綿をもみ殻にかえ、刺繍糸を色鮮やかなリリアン糸にし、まりの三方に房を付けるなど、伝統と美を生かし安価で大量生産のできる製作方法が考案されました。」

大門トミエさんは、たった一人で石沢鮎瀬に伝わっていた「かけまり」の伝統を受け継いでいた豊島スエノさんの娘です。
豊島さんはこのままでは「かけまり」の技術が絶えてしまうと危機感を持ち、嫁いだ大門さんを呼び寄せて教えました。
大門さんはおそらく、母から習った昔ながらの技法をやってみせたのでしょう。
しかし昭和39年2月10日『秋田魁新報』の記事にあるとおり、当時本荘の”ごてんまり”は「海外からも注文殺到」している状況でした。斎藤さんらのグループはその注文に対応すべく、安価で大量生産のできる製作方法を考案したものと考えられます。
つまり、今私たちが”本荘ごてんまり”と考えているまりの礎は主に斎藤ユキノさんが作り上げたものなのです。

そして、もともと(旧)本荘市が「市独特の手芸品として残したい」と保存を検討した”ごてんまりの”イメージは、斎藤ユキノさんと石塚八重子さんの合作のまりでした。
木村与之助担当と考えられる、昭和37年7月27日『市政だより』の文章を引用します。

ごてんまり保存
本荘市鮎瀬豊島スエノさん(七六)の手芸”ごてんまり”を市独特の手芸品として残したいと市文化財保護研究会や観光協会とその方法を研究している。このまりはむかしのご殿女中達によつて作られたものと伝えられゴム工業の発達でこの世から姿を消す運命にあるもの。(原文ママ)

しかしこの文章に添えられた写真は、豊島スエノさんのまりでもなく、大門トミエさんのまりでもなく、斎藤ユキノさんと石塚八重子さん合作のまりでした。
自分たちが作ったまりの写真に全然別の人の名前が添えられて、市文化財保護研究会や観光協会が「市独特の手芸品として残」すことを検討しているなんて言われたら、誰だって「ちょっと待て」と言いたくなるでしょう。
他にも昭和37年5月23日『秋田魁新報』に、「望まれる保護育成 製作者県内でたった二人 御殿マリ」という見出しの記事で、やはり”ごてんまり”の作成者は豊島・大門親子のことしか触れられていませんでした。
これらのことに憤りを感じた斎藤ユキノさんと石塚八重子さんが抗議の声を上げたのが、いわゆる「ごてんまり騒動」です。

以上のことから、わたしは本荘ごてんまりの創始者は斎藤ユキノさん(もしくは斎藤ユキノさんと石塚八重子さん)と考えていいのではないかと思っています。
本荘ごてんまりが生まれた時期については、石川恵美子さんが「おそらく、この昭和三十九年頃から、三方に房を付けたまりを考案・作成したのであろう。」(注3)と述べています。
前述したように、昭和39年2月10日『秋田魁新報』の記事には三方に房を付けたまりの写真が載っていますし、昭和40年4月25日『本荘時報』には「まりはつくものでさげるものではないので、房をつけるのは原則として邪道だが昨今のように部屋の装飾用としての用途からすればこれも止むを得まい」と房の付いたまりに言及した記録もあります。
昭和39年頃という時期は、これらのことからも納得出来るものです。

石沢鮎瀬でも房をつけたまりは作られていたようなのですが(注4)、それは人から「房を付けた方が売れる」と言われて付けたそうです。(注5)
当時石沢鮎瀬では、「ごてんまり講習会」が開催され、伝統の製法を180名が習得するなど、木妙尼のまりの伝統を受け継ごうとする機運が高まっていました。
一方、斎藤ユキノさんと石塚八重子さんは、昭和34年頃日役町蔵堅寺の庫裡にころがっていた古い手まりを手本に、見よう見まねでその製作技法を復元することに成功しました。
果たして伝統保持が第一、新しいことも人に言われたからやるという姿勢の人が、全国でここだけという意匠の「本荘ごてんまり」を作り上げることができるでしょうか?
わたしは論理的に考えて不可能だと思います。
それよりも自分たちでイチから作り上げた、斎藤ユキノさんと石塚八重子さんが全国でもここだけ、唯一無二の美を持つ「本荘ごてんまり」を作り上げた、と考える方が納得できるように思うのですが、これは私個人の考えであり由利本荘市を代表する意見ではありません。

今のところ前記事で書いたように、本荘ごてんまりの源流は二つあるという考え方の方が"正統"のようです。




(注1)高野喜代一『私記 北京 宮古島 家郷』1995年 秋田文化出版 p.320
(注2)『企画展 本荘ごてんまりと全国ごてんまりコンクールの歩み』本荘郷土資料館 2007.9.22-2008.1.20
こちらの資料は本荘郷土資料館か、由利本荘市中央図書館で見ることが出来る。
(注3)石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会 p.55
(注4)昭和39年2月15日『本荘時報』の記事では、石沢婦人会が行った第二回ごてんまり講習会の内容が紹介されており、そこには下方に房の付いたまりの写真がある。
(注5)「木妙尼のまりは房のない遊戯用のまりだったが、小松健三(当時石沢公民館主事)に房を付けた方が売れると言われ、そうした。」須田キヨ(大正15年生まれ)からの筆者聞き取り。石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会 p.40-41

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