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ごてんまりの歴史は何故忘れられやすいのか

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

ごてんまりは秋田県由利本荘市を代表する工芸品ですが、その歴史を知る人はほとんどいません。
昭和の頃にはすでに、「ごてんまりはいつからあるのか」という基本情報でさえ曖昧になっていました。
昭和29年6月から昭和39年4月1日まで本荘市役所に勤め、市の広報紙『市政だより』を担当した木村与之助という人物は、自らの記憶を思いだしながら次のように記述しています。
木村は昭和36年に秋田で行われた国体で、選手団のおみやげとして”ごてんまり”を贈ることを思いついた人物です。

昭和三十五年の暮、わたくしは忘れかけていたこのまり(・・)を見た、そして柳田先生を思い出した。製作者をきくと市内の鮎瀬の豊島スエノさんということがわかった。年をきくと数えで七十四歳だという。市政だよりで紹介したのは昭和三十六年三月三十一日である。昭和三十六年十月七日、スポーツの日制定記念の体操祭が本荘市で開催され、その翌日から第十六回の国体が開かれた、本荘会場では卓球とソフトボール大会が開かれたのだが市の実行委員会ではこの時“本荘市の民芸品ごてんまり”と称し各選手段の監督に記念品として贈った、正式に言って世間に“ごてんまり”という名を使ったのはこの時が始めてで、明治時代から御殿(・・・)まり(・・)という名があったというのはどう考えても誤りの様である。強いていえば名付け親は柳田国男先生だーとわたくしは思う。だから“まり”は全国いたるところにあるかもしれないが“ごてんまり”の名称は本荘だけのものだとわたくしは固く信じている。

(木村与之助「ごてんまり物語」『鶴舞』第11号 本荘市文化財保護協会 昭和37年10月1日)

ここで木村は「明治時代から御殿まりという名があったというのはどう考えても誤りの様」だと述べていますが、現在由利本荘市役所の本庁入り口には、このようなごてんまりのディスプレイがされています。

江戸後期から続く悠久の技

江戸時代から続く悠久の技 民芸さいとう

(令和4年9月27日筆者撮影)

明治時代になかったとすれば、江戸時代にももちろん存在しなかったでしょう。
にもかかわらず、このようなディスプレイがされているということは、ごてんまりの歴史は令和4年の今でもやはり忘れられているのです。
ごてんまりの歴史はなぜ、これほどまでに忘れられやすいのでしょうか。
それには大きく二つの理由があるとわたしは考えています。

①ごてんまりの源流が二つあること
②「御殿女中説」の影響


①ごてんまりの源流が二つあることに関しては、こちらの記事をご参照下さい。

源流が一つでなく、二つあることは単純にものごとが複雑になります。
斉藤ユキノのまりは、昭和36年の米まつりの前に、児玉八重子が日役町の蔵堅寺から借りてきたまりを見て、見よう見まねで作ったのが最初です。
つまり昭和36年ころに自力で作り出したものです。
反対に豊島スエノのまりは、石沢村鮎瀬に伝わる「かけまり」がベースです。
「かけまり」は、石沢村鮎瀬に住んでいた広田庵の木妙尼(もくみょうに)が村の娘たちに教えたのが始まりだと言われていて、その歴史はおそらく江戸時代まで遡ることができるらしいのですが、その伝統を受け継いでいたのが当時74歳の豊島スエノさんただ一人であったことと、文献的証拠がないためはっきりしたことは分かっていません。
木妙尼のまりはあくまで「かけまり」であり、江戸時代まで遡れるというはっきりした証拠がないので、わたしは本荘のごてんまりが江戸時代からあったと主張するのは無理があると考えています。


②「御殿女中説」の影響

これは慶長18年(1613年)頃に本荘満茂(ほんじょう みつしげ)が本荘城に城を移したとき、大奥の御殿女中が手ほどきをしたのがごてんまりの始まりだとする説のことです。

今では否定されていますが、この御殿女中説が長年公式採用されて通説となってしまった時代がありました。
この御殿女中説の影響が、ごてんまりの歴史が忘れられやすい素地を作り上げてしまっています。
未だにわたし自身も「本荘ごてんまりは、お城(御殿)で生まれたまりだから、ごてんまりなんですよね?」と言われることがあります。
ごてんまり製作者の中には、御殿女中説が通説だった時代を知っている人もいて、自分の頭の中身をアップデートするのが面倒なのか、「ごてんまりは本荘城の御殿女中が作ったってことでいいんでねが」と言う人もいます。

上記二つの理由に加えて、ごてんまりの歴史が忘れられやすい理由に、必ずしも市がごてんまりの歴史を積極的に伝えようとしてこなかった、というのもあると思います。
前述したように、市役所の本庁入り口にはまるでごてんまりが江戸時代からあるかのようなディスプレイがされています。
由利本荘市観光協会のホームページにもあるとおり、本荘の手まり文化が江戸時代からあったという説は記録としては残っていません。

「江戸期の手まりは、御殿女中から庶民に伝わったとも言われていますが、本荘には記録としては残っておらず、現在は歴史ロマンを感じさせる説として広まっています。」

https://yurihonjo-kanko.jp/yrdb/introduce/

また由利本荘市観光協会事務局が全国ごてんまりコンクールの動画をYouTube上にあげているのですが、そこではごてんまりについて非常に曖昧な歴史説明がされています。

古の時代より、世代をこえて

(43秒部分)

「古の時代」とは、一体いつのことなのでしょう。
しかも最初の一文は倒置法になっています。
文末に「手まり」とありますから、実はこの文章は本荘ごてんまりのことではなく、本荘のごてんまりのことでもなく、全国各地に伝わる手まり一般について述べたもののようです。
しかし最初に「本荘ごてんまりとは」と、本荘ごてんまりについて述べるかのようなタイトルがありますから、これでは読んだ人に「本荘ごてんまりってよく分からないけれど、とにかくすっごく昔からあるものなのね」と間違った理解をされてもおかしくありません。

これらの理由が重なり、「ごてんまりとは古くからあるもの。だけど、いつからあるんだっけ?」という状況を作り出しているのだと思います。
由利本荘市にはごてんまりに関心のある人もいて、「ごてんまりの歴史について知りたい」という意見もあるのに、残念なことです。
由利本荘市中央図書館が発行する「こどもらいぶレター」の2014年6,7月号を見ると、「ごてんまりの歴史について知りたい」と思っているこどもがいることが分かります。

こどもライブレター

地元のものごとについて知りたい、というこどもの純粋な意見はないがしろにされていいものではないでしょう。
わたしは「ごてんまりの”分かる”と”できる”を届けたい」と思って活動しています。
こういった声に真正面から応えていけるように、今後も活動を続けていきたいです。


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