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秋田にもこんなにかっこいい女性がいた【ごてんまりに関わった女性たち】

こんにちは。秋田県由利本荘市でごてんまりを作っています〈ゆりてまり〉です。

先日、東京で活動している手まり作家の方とお話しさせていただく機会がありました。
その人に「活動のモチベーションは何ですか」と聞かれて、深く考えないままに「中毒みたいなものですね。作らないでいると禁断症状が出るんです」と答えてしまいました。
しかしその後に、ああ、そうだ、あれを答えれば良かったのだ、と思い出すことがありました。
ごてんまりをやっていて、いろいろ言われてつらい時期もあったけれど、それでも頑張ろうと思えた理由。
それは、ごてんまりに関わった、かっこいい女性たちのエピソードです。

それらのエピソードはもっとも強くわたしの背中を押してくれて、確実にモチベーションの礎になりました。
今回はそのお話をしたいと思います。

Uターンショック

わたしは2017年の年末にUターンして、2018年からごてんまりを作り始めました。
最初は全然うまくできなくて、「うまく作れるようになったらこんなものを作りたい」と、アイディアをイラストに描いていました。

そのイラストを持って、とある由利本荘市の人に「いずれこんなものが作りたいんです」と話したところ、急に怒鳴られたことがあります。
なぜ怒鳴られたのか今でもよく分からないのですが、「こんなことをして恥ずかしくないのか」と言われました。
ごてんまりを始めて最初の頃は、よくこんなことがありました。

「ごてんまりの情報をネットなんかにあげて、中国人が真似して安く作ったらどうしてくれるんだ」と言われたり、「もしごてんまりを見るための旅行案なんか提出して、それ目当てに中国人が大挙してこの町に押し寄せたら、あなたは責任を取れるのか」などと言われました。
初めてのイベント出店(展示のみ)で、ごてんまりを抱えたテディベアやイラストを展示したときも、来場者の方から「あんたたち、勝手にこんなことして大丈夫なのか」と言われました。

一体何を心配しているのか、わたしにはよく分からないんですよね。
心配している中身のキーワードとしてあがってくるのが、なぜか中国人。
そして責める理屈を「恥ずかしくないのか」と感情面に求めたり、「もし中国人が大挙して押し寄せたらどうるんだ」という、個人では絶対に対応不可能なことを言われたり。
失礼かもしれませんが、「これってギャグなのかな?」と思いました。
でも、皆さん至極真面目な顔をなさっていたので、おそらくマジだったんだと思います。

最初に怒鳴られたときは、ただショックでした。
それまで急に怒鳴られるという経験がなかったので、びっくりして黙ってしまったのを覚えています。
しかし時間が経つに連れ、なぜわたしはあんなに怒られなければいけなかったのか、疑問に思うようになりました。
考えてみれば、言ってきたのはわたしの親でもなく、上司でもない人たちです。
わたしがその人たちの意見を受け入れなければいけない理由はありません。
しかもそのときのわたしは「ごてんまりでこんなことがしたい」と、夢というかプランを語っているだけの、本格的にはまだ何もしていない状態でした。
なぜあの人たちは、何もしていないわたしのことを、あそこまで批判してきたのでしょう。

ごてんまりの歴史を調べて分かったこと


もしかしたらわたしは、自分でも知らないうちに地域独特の地雷を踏んでしまったのかもしれません。
そう思ったわたしは、ごてんまりを作るだけでなく、ごてんまりの歴史について調べてみることにしました。
このとき、大学で学んだ美術史の知識が役に立ちました。
調べてみると、ごてんまりの歴史は常に曲解と勘違いの連続であることが分かりました。
残念ながら未だにそういう状況が続いており、地域におけるごてんまりの認識は、迷走しているとしか言えない状況です。

正しい知識を持ってごてんまりの歴史について語れる人物というのは、ほんの一握りしかいません。
大部分が自分自身の誤解や知識不足に気づかないまま(あるいは認識した上で無視しながら)、ごてんまりを「こういうものだ」と主張しています。
そんな状況の中、過去には事実から大幅にそれてしまったごてんまりの認識を変えようと、実際に行動を起こした人たちもいました。

わたしの背中を押してくれた人たち①

例えば、斎藤ユキノ(田村正子)さんと石塚八重子さん。
昭和36年の秋田国体で、ごてんまりが選手団にお土産として配られることになったとき、複数の女性が本荘市役所から請われてごてんまり製作に関わりましたが、市政だよりで紹介されたのは豊島スエノさんだけでした。
しかも、このときの市政だよりに使われた写真のごてんまりは、実は斎藤さんと石塚さんが共同で作り、米まつりで賞を取った作品でした。
昭和37年5月23日の『秋田魁新報』でも、「御殿マリ」を作れるのは豊島スエノさんとその娘の大門トミエさんのみと紹介されてしまいます。
事実が正しく伝えられていないと憤った斎藤さんと石塚さんは、連盟で当時の市長に抗議文を提出します。
これがいわゆる”ごてんまり騒動”です。

市政だよりに紹介された「まり」は三十六年の米まつりの前に日役町の蔵堅寺の古くからありましたまりを私(石塚)が借りて来まして、田村がそれを真似て作り米まつりに出品しましたところ、実行委員長であるあなたから、賞状を頂いたのでございます。
(中略)若し、市文化財として保存した後に、私どもでない創作者を名乗る人が出たらとしたら、おかしなことになりはしないでしょうか。
あるいは、どうせ創作者不明に落付くことであるから、問題はないと片付けることなのでしょうか。
この間の事情というものは、市政だより編集の木村与之助さんが最も詳しい筈でございます。

田村・石塚による抗議文 昭和37年8月12日 ※石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第4号 2011年12月 本荘由利地域史研究会より

この二人が作ったまりは、石塚さんが蔵堅寺から借りて来た由来不明の古いまりを、斎藤さんが見よう見まねで復元したというものです。
つまり本荘市(合併して現在は由利本荘市)は、背景に「かけまり」の伝統を持つ豊島スエノさんと、その娘大門トミエさんのみをごてんまりの「正統」とみなし、それ以外のまりを無視しようとしたわけです。

抗議文の作成に関わった高野喜代一氏は、このときの経緯について某所で詳しく語っています。
ここに引用するのがはばかられるほど、辛辣な口調で市のやり方を批判していますので、気になる方は高野喜代一氏の『評論 青銅刀子』2003年をご覧下さい。

このときの市の対応で分かるのは、本荘市では伝統を受け継ぐことが何よりも評価され、個人のオリジナリティやクリエイティビティといったものは、全く評価の対象にはならなかったということです。
斎藤さんと石塚さんのまりは、古い歴史や伝統を持たない、独力で作り出した新しい芸術であるがゆえに、「評価する価値なし」と無視されかけました。
しかし彼女たちは、はっきりと”NO”の声をあげました。
そして少数ながらもそれを支援しようとする動きがありました。
秋田県民というと、みんな事なかれ主義で大人しい羊の群れのように思われがちですが、過去にはこんなふうに”NO”を言える人間もいたのです。

その後彼女たちのグループはオリジナルの模様や房の付け方に創意を凝らし、昭和39年ごろには球体の三方に房のついたまりを考案します。
これが現在「本荘ごてんまり」と呼ばれているまりの原型です。
しかし、地元ではなぜかごてんまりの由来として御殿女中説が定着してしまい、斎藤さんたちの名前も次第に忘れられていきます。

わたしの背中を押してくれた人たち②


もう一人、わたしの背中を押してくれた人がいます。
石川恵美子さんです。
石川さんは2002〜2010年度に本荘郷土資料館で資料調査員を務めた方です。
2011年12月、郷土研究誌『由理』に「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」という論考を発表し、市のごてんまり観を根底からひっくり返すきっかけを作りました。

この人がいなかったら、今だに由利本荘市はごてんまりの由来として、御殿女中説を正式採用し続けていたことでしょう。
論考が発表される前の2007年、秋田で再び国体が開催されました。
昭和36年の国体と同じく、ごてんまりが選手団のお土産として配られたのですが、このとき市は、御殿女中説とともにごてんまりをPRしました。


本荘の「ごてんまり」
本荘の「ごてんまり」は、赤白の房が三方に下がる華麗さと、模様の美しさで知られ、江戸時代初期の慶長十八年(一六一三年)に本荘城へ移った楯岡豊前守満茂の御殿女中達が、遊戯用の手まりとして作ったのが始まりと言われています。
毎年十一月に、由利本荘市で開催される「全国ごてんまりコンクール」には、全国各地から「ごてんまり」が出品され、その美しさを競っており、丸いごてんまりは、円満の象徴としてお祝い品や装飾品としても愛されています。

2007年の秋田わか杉国体で販売・配布されたごてんまりの携帯ストラップに添えられていた言葉

それと同時期に、本荘郷土資料館では「本荘ごてんまり企画展」という企画展を開催していました。
そこではごてんまりの由来として、二つの説を紹介しました。
一つは石沢地区鮎瀬で連綿と受け継がれていた「かけまり」と、一つは斎藤さんと石塚さんが蔵堅寺の古いまりを手本に、見よう見まねでつくったまりです。
市が国体でしきりにPRしている、御殿女中の話はどこにも出てきません。

これではまるで市にケンカを売っているようなものです。
市の説明とは全く異なる説を発表することに、不安や恐れはなかったのでしょうか?
石川さんは、平成24年(2012年)3月9日『秋田魁新報』の「"御殿女中説"意義あり 50年前、勘違いが通説に」という記事で、論考発表の理由について「子どもたちに根拠のない歴史を教えたくなかった」と説明しています。
自分の保身より、次の世代へ正しい歴史を伝えることを優先させたのです。

だから、ごてんまりはやめられない


ごてんまりの歴史を調べる中で、こういった女性たちの活躍を知り、それが確実にわたしのモチベーションになりました。
他にも『本荘市史』を編纂した今野喜次氏は、「『ごてんまり』については、江戸時代はもとより明治・大正・戦前の数万点を超える市史史料にも出てこない。」と述べた上で、やはり御殿女中説を批判しています。
きちんとしたデータをもとにごてんまりを語ろうとする人は、今までにも何人かいたのです。

残念なことに、彼らの言葉は地域で重要視されることはありませんでした。
今だに「本荘のごてんまりは江戸時代の御殿女中が作ったんだ」と言う人はいますし、球体の三方に房のあるまりは100年以上前から本荘にあるのだ、と思っている人も少なくありません。
昭和36年の国体から約60年経ちますが、ごてんまりの歴史は常に曲解と勘違いの連続であるという点は、今も変わっていないのです。

しかしその時代ごとに、必ず"NO"を言える人間が現れました。
わたしはそのことに希望を感じます。
そしてそれ故に、自分の活動が誤解されたり批判されたりしても、「そんなのは歴史的に見て当たり前。だからこそ諦めてはいけないのだ」と思うことができるようになりました。

今わたしが「ごてんまりの"分かる"と"できる"を伝えたい」をモットーに活動しているのは、以上のような理由からです。
地域にこんな素晴らしい人たちがいたということを忘れて欲しくないですし、たとえ圧倒的に少数で勝ち目がないように見えたとしても、やってやれないことはないのだ、ということを伝えていきたいと思います。

そしてこの60年の歴史の中で、わたしはごてんまりを作ることができ、歴史もある程度語れることができるという、おそらく初めての存在です。
きっと、わたしにしかできないことがあるはず。
だからごてんまりはやめられないのです。


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