変身ポーズ_t

第4話/全9回 小説家・小林敏生の変身

 これまでの話/主人公・小林敏生は24歳にもなって、5歳のとき結婚の約束をした井上安子のことが忘れられずにいた。安子が井上エリスと名前を変え、人気女優になってしまったからだ。一方敏生は編プロに勤めながらスーパーヒーローの小説を書く、冴えない日々を送っていた。鬱々とした生活の中、敏生は何度も繰り返し同じ夢を見てしまう。5歳の敏生はファイブレンジャーレッドになって安子を迎えに行き、結婚する約束をする。しかしその時、井上安子が最後に何と言ったのか敏生は思い出せない。一方そんなとき、井上エリスのインタビュー記事を書く仕事が舞い込んでくる。

井上エリスのインタビューの日程はすぐに決まった。場所は市ヶ谷の駅近く、彼女が所属する事務所の会議室を借りれることになった。メインでインタビューするのは6歳年上の女性の先輩・佛田さんで、俺はアシスタント。テープ起こしはもちろん、結局白倉さんのプッシュで勉強もかねて記事を書かせてもらうことになったが、どうせ記事の原型がなくなるまで赤が入る。気負わずいこうと決めていた。

 俺は佛田さんの指示で、手土産用に新宿駅東口で千疋屋のフルーツクッキー詰め合わせを購入し、先に市ヶ谷に向かっている先輩の後を追った。スマホで井上エリスのプロフィールをチェックする。井上エリス。24歳。神奈川県出身。血液型はAB型。特技はジャズダンスと空手(初段)。好きなものはスイーツ、フルーツ、お刺身。嫌いなものは虫、特にゴキブリ。

 気負わずいこう、もう一度俺は自分に言い聞かせる。おそらく井上エリスは俺のことを覚えていないだろう、もしくは覚えていても気付かないだろう。最後にメールしたのは高校のときだったとはいえ、当時は自撮り写真を送るのはあまり一般的ではなかったから、俺から自分の写真を送ることはなかった。井上エリスの中の小林敏生は5歳児のままだ。俺がしゃしゃり出ない限り、井上エリスが俺に気付くことはない。気付いたところで、俺と井上エリスの格差はもう埋められるはずはないのだから。

               ◆◆◆

「お世話になります。よろしくお願いします」

「今日はお忙しい中、お時間ありがとうございます。今日インタビューする佛田と、アシスタントの小林です。ではさっそくですが始めさせていただきますね」

 準備が整って早々にインタビューは始まった。井上エリスはテレビで観る姿そのままに、ナチュラルに整えられたメイクや髪、シンプルで上質な服、礼儀正しくにこにことインタビューに応えていった。
素材が良いから個性を主張する必要がなく、求められることに的確に応えていく要領の良さを感じた。俺が知っている、泣きじゃくる5歳の井上安子はどこにもいなかった。俺は飛散する意識をまとめ、仕事に集中しようと試みた。

「…以上となります。本日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございまし」

 井上エリスは最後に何か言いかけたように見えたが、挨拶を終えるか終えないかくらいの間に、マネージャーらしきスーツの男が彼女を立ち上がらせるよう促した。ちょっと、失礼でしょう、と井上エリスがマネージャーに言ったのが印象的だった。マネージャーは無表情で何も言わず、何も変わらず、彼女を会議室から外に連れて行ってしまった。羊飼いが抵抗する羊を誘導するような無情さを感じた。
 インタビューの際、メンバーが使ったお茶のカップを片付けるため、俺はカップをトレイに載せ、お茶菓子のごみをまとめて給湯室に向かった。許可を得て借りた給湯室でカップを洗っていると、解ってはいるがどこかみじめな気持ちになる。こんなことは男がする仕事じゃない、井上エリスにだけはこの姿を見られたくない。時代遅れな思考が宙を舞う。

「だから、やめてって言ってるでしょう!!」

 隣室から、井上エリスが声を荒げる声が聞こえた。荒げた彼女の声だけが聞こえる。何か、揉めているのは間違い無さそうだった。
「私を我慢させることで解決しようとしないで、システムを改善させ…!」
 言葉が妙な間でで途切れる。何かが彼女を押し黙らせたのがわかる。
 ばたんっと隣室のドアが開き、ヒールの音が駆け出した。遅れて、同じ部屋にいた男が後を追っていった。

「痛い、痛い痛い痛い、何考えてるのよ!!」

 先ほどのインタビューと同じ人間とは思えない、黒板をフォークで掻きむしったような叫び声が廊下に響いた。
 その時俺は、やはり給湯室でカップを洗っている自分がみっともなく、そして初めて聞いた女のヒステリーがただただ恐ろしく、彼女を追うことはできないのだった。

『オレ、小学校を出たらファイブレンジャーレッドになるんだ。そしたら、ケッコンしよう』

 今思えば、この時井上エリスは泣いていた。現実の女の子は物語のお姫様の様にさめざめと泣くだけでは終わらないのだ。正義のヒーローならば、間違いなく助けに飛び出すこのタイミングで、俺は給湯室で息をひそめることしかできないのだった。



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