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「奏」を聴いて思うこと

こんにちは。最近すっかり天気が秋らしくなって、毎日着る服に悩みます(笑)

前も言ったかもしれませんが、雨は家のなかで見てる分には好きです。雨音は聴くと落ち着くので。

今日みたいにぱらつく雨は、中途半端であまり好きじゃないですね。

さて、本題に入りますが、

ここでいう「奏」とは、スキマスイッチの代表曲のことを指します。

アーティスト自体が著名ですし、合唱曲にもなったので、知っている方も多いかと思います。

今回はそんな「奏」について、少しですが、自分なりに解釈して考えたことを書いていきます。

「奏」とはどんな歌なのか?なぜ「奏」という曲名なのか?

2015年の朝日新聞のインタビュー記事、

もう「奏」は歌いたくないと思った (クリックで別サイトに飛びます)

にて、スキマスイッチ本人から回答がありますが、どうやらテーマは「別れ」で作曲したようです。

当時のリリース予定日が3月ということで、男女や友人、職場など様々な「別れ」の季節を連想し、この曲では「離ればなれになる男女の別れ」を書いたそうです。

遠距離恋愛となると、大体男性が離れる側で女性が残される側だということに違和感を感じたそうで、敢えてその逆パターンで書かれています。

人称が「僕」と「君」で語られているため、大抵の場合は一組のカップルを想像することが多いのでしょうが、

聴くひとによって、その人物は「親友同士」や「家族」などにも置き換えることのできる点が、多くの人の共感を呼んだ理由な気がします。

つづいて、なぜ「奏」なのかについての個人的な見解ですが、

彼/彼女からもらった"自分"に気付き、感謝し、新天地でも上手くいくように、と祈りに近い想いを「歌い」、自らの声を「奏で」るから、「奏」という名前なのかなと思いました。

体言止めの効果が与えるもの

「奏」には、各所に名詞で表現が止まる部分が出てきます。

「改札の前つなぐ手と手」「いつものざわめき、新しい風」「焦る僕」「解ける手」「離れてく君」「突然ふいに鳴り響くベルの音」

具体的な場面(状況)やそこに立つ人物、その瞬間の言葉にならない気持ちが、ありありと浮かんだのではないでしょうか?

あえて説明的に歌詞を書かないことで、聴く人によって想像の余地を与え、解釈の広がりを与えています。

少し違う例かもしれませんが、彫刻などで腕や脚のないものを時たま見かけると思います。あれも、見る人の想像によって存在しない部分が補完され、作品が完成するという一見不完全な"完全"作品なのです。

「さよなら」に代わる言葉、って?

君が大人になってく その季節が

悲しい歌で溢れないように

最後に何か君に伝えたくて

「さよなら」に代わる言葉を僕は探してた

上手く言葉にならない感情が確かに自分のなかにあって、

送り出すことへの躊躇いと寂しさがある反面、相手を明るく応援したい気持ちもあるアンビバレンスな状態。

「さよなら」とは、別れの言葉。きっと口にしてしまったら、もう二度と会えない気がする。そんな気持ちもどこかにあったのかもしれません。

そんな葛藤のなかで「僕」はあることに気がつきます。それは、「運命やその時々の流れ通りに物事や出来事は移ろう」ということです。

君の手を引くその役目が僕の使命だなんて そう思ってた

だけど今わかったんだ 僕らならもう

重ねた日々がほら、導いてくれる

一緒にいることが当たりまえで、繋がっていることに何も不思議を感じていなかったのでしょう。

しかし、新しく一歩踏み出す「君」を見て気づきます。直接的な繋がりがなくとも、お互いに先へと進めることを。

 口をついて出る「ほんとのきもち」

「突然ふいに鳴り響くベルの音」をきっけに、押し寄せる色々な感情。

「さよなら」でなく言いたかった言葉を見つけ、別れの決心がついた「僕」。

「君」がいたからこそ見えるようになった世界、全く違う景色を思い返し、当たり前だった日常に想いを馳せる。

別れた後、新しい道を進む「君」に遠くからエールを送る。

転調してから溢れるようにして溢れる言葉の数々は、儚いながらもしっかりとした意思を持っているように感じます。

どうでしょう、以上が僕の「奏」を聞いた感想です。

きっと人によって感じることや思うことは違うと思います。

今一度「奏」、聴いてみませんか?


Youtube「奏 / スキマスイッチ」


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