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私のいままで、子供と夫と家のこと色々編


私は24歳で一人目、26歳で二人目の子供を産みました。

24歳でなんだか生理が来ないな、と調べたら妊娠していました。
その時私はまだ結婚していませんでした。
彼とはだいたい二年くらい付き合っていた頃だと思います。

居酒屋で二日早くバイトに入っていた男性と、
「ぼくらの」と「攻殻機動隊」の話で盛り上がり、
「なるたる」を私が持っていて、貸してあげたことから
なんとなくいろいろ助けてもらったりしたところから仲良くなりました。
兄と姉との一件のときも、「次は俺のとこ逃げておいでよ」なんて言ってくれていました。
実際付き合ったきっかけは、私が小説を書くためのパソコンを買うのを
機械に詳しい彼に付き合ってもらい、そして設定もしてくれるというので
家に来てもらったときに
「もしかして、私のこと好きですか?」
と聞いたことがはじまりでした。
私のことをビアンさんなのではと考えていて、言うのを躊躇っていたそうです。
どっちも好きになる人間ですというと、納得していました。
そこから一か月ほどで友人の家に居候していた彼は、私と母と祖母の住む家に転がり込むことになります。
マスオさん状態でなのに、のびのびと生活できるすごい精神の持ち主です。
機械につよく、料理が上手な、凶悪な面のあるトトロのような人です。
そんな彼とは、子供は苦手だね、という意見で一致していたので妊娠が分かったときは、きっと彼も産まない選択を望むだろうと思っていました。

1人目。


1人目の時は、産まないという選択が私の中では優勢でした。
彼にもそれを伝え、病院で堕胎の予約をしようとしていました。
ですが、仕事から帰ってきた彼から「やっぱり産んでほしい」と言われ、
母にも「今なら手伝ってあげられるから、産んだら」と後押しされ、
産むことにしたのでした。

(その時に、いっしょに入籍もしました。
指輪も、式も、写真もなく、ただ書類を提出した日ですが、
毎年覚えていたらケーキ食べたりしています。)

正直、自分が他人を優先して世話をできるのかとか、
もし男の子でいつか誰かへ加害を働く人間になったらとか、
考えてめちゃくちゃ下降する日も沢山ありました。

あと、体重が物凄く増えてしんどかったことを覚えています笑
母が、「あんたは野菜しか食べないから、二人分は食べないと」と
言うので、そうかとめちゃくちゃ食べていたことが原因です。
産院で止められました笑

1人目がお腹にいることが分かる直前まで、
私は心療内科に受診していました。
眠れないこと、日中に不安になることを改善する薬をけっこう出してもらっていたので、それが子供に影響するのではないかと、それもけっこう不安でした。

私は出産予定日の一か月前まで働いていたのですが、その間ずっと自転車で仕事にいっていました。
重いものも(20キロくらいまで)持ってましたし、
一日中立ちっぱなしだったのに、
まったく問題なく育った長男は本当に強い子だと、
生まれる前に完敗の気持ちを味わいました。

長男を産むときは母が付き添ってくれたのですが、その時母は携帯の釣りゲームにハマっていました。
痛くて痛くて、怒って腰をさすって!という私の腰を携帯片手にさすっていた母の顔を、今でも覚えています笑
八時間の陣痛で、朝方生まれた長男は、出てきた瞬間取り上げてくれた先生が声を上げて笑うくらい大きな頭をしていました。
3400㎏あったので、顔もしっかりしていて、肩もがっしりしていて、
「壊れそうで抱っこするのが怖い」なんてことには全くならず笑
退院後も、すぐに五時間は寝て、母乳があまり出なかった私はすぐに粉ミルクに変更しましたが、問題なく、すくすくと大きくなっていきました。
はじめは半年か一年の育休を取ろうと思っていたのですが、
最初の一か月で「これは、このままだとこの子を私が殺してしまう」と感じ、首が座るとすぐに職場復帰をしました。

ちょうど?夫が仕事を辞めて、ちょっとゆっくりしたいと言っていたので
長男を任せていました。おかげで長男かわ最初に口にした言葉は「だでぃ」でした。めちゃくちゃ発音良くて笑いました。次が「でんでん、ばしゅ」、「にゃんにゃん」と来て、「はぁは」と言えるようになりました。
夫がお風呂に入れながら「はぁーっは」と赤ちゃんにも言いやすいように工夫して私の呼び方を覚えさせてくれていたのです。
私が、自分のことを「母だよ~」とか言わなかったことが、たぶん一番の原因です。

その後は嫌々期も数秒で終わらせ、おしゃぶりもミルクも説得によって卒業し、彼はいくつかの保育園を渡り歩くことになりましたが、どこにいってもすぐに友達をつくって楽しんで通っていました。
清掃車が次のゴミ捨て場に向かうのを、泣きながら追いかけ、乗っていた清掃員さんにめちゃくちゃ笑ってもらったこともいい思い出です。
どんなに遊んでいても、年齢を重ねても、電車が走ると直立してその様子を見つめ、応援を叫び、手を大きく振っていました。
それが10歳の今も変わらないので、きっと彼は生涯の推しを見つけたんだなと感じています。

2人目。


二人目の時は時間を少し減らしてもらって、やっぱり一か月前まで働きました。
出産の時、長男が八時間しっかり痛くて、おかげで出てくるときは
「もういい加減にでてこいよ!!」
という気持ちで踏ん張って出しました。
次男は、それとは全く別で、産む直前までちくちく痛いくらいだったので、
産むぞとなったときの痛みが長男以上でした。
しかも切ったところを縫い合わせてくれた先生が、
肉を盛り上げて縫ってしまって、抜糸まで本当に痛かったです。
後産もなかなかしんどくて、起き上がっているのがしんどい日が続きました。
自分でも体がぼろぼろの、虫喰いだらけのレタスのような状態であることが分かるくらいでした。
そのうえ、次男はアレルギーがあったので、
母乳を飲ませていた間、体中に発疹ができ、それが水疱になって破れてかさぶたになり、大変なことになっていました。
調べて、牛乳、卵、小麦粉、動物の毛が駄目だとわかり、
アレルギー用の粉ミルクを飲ませるようになってから、
やっと肌は落ち着いていきました。
このころはせっかく可愛くても、肌が可哀そうであまり撮っていなくて、
もっとはやくアレルギーに気付いていたらなと思います。
離乳食も、ひたすら出汁かコンソメ味の野菜とご飯を煮たものを食べ続けてくれた次男は、少しずつ病院に通って除去食をはじめ、今では体調が悪くない限りは大体食べられるようになりました。
温泉卵と、コーヒーとかに入れるフレッシュはまだ危ないのと、
動物は触ってすぐに手を洗わないとすぐ痒くなります。
でも、あれだけたくさんの反応があった赤ん坊のころを思うと、
十分だなと思います。

2人の子供のこと


長男は三歳の頃から車と電車で遊びまくっていて、
外に散歩にでたりすると必ず両手におもちゃをもっていました。
(今思うと危ない、、、)
ずっと歩かなかったので心配していたのですが、
どうやら靴が嫌だったらしく、クロックスのようなものに変えたら
すたすたと歩き始め、あまりの変化に夫と爆笑しました。
歩き始めると、彼はめちゃくちゃ歩きました。
手をつなぐのも嫌がり、抱っこも嫌がり、
どんどんと歩いていく背中はとてもかっこよかったです。
そしてたまに転んでしまった時は、自分のことよりも、手に持ってるおもちゃの状態を確かめ、無事だとすっくと立ちあがりまた歩き始めました。
おもちゃが手から飛んでいってしまっていると、
大泣きして拾いにいっていました。
とにかく痛いのにつよくて、
予防接種もほとんど泣かなかったので、先生にびっくりされるくらいでした。
母に対しての執着はほとんどなく、仕事に行くときに泣かれたことはありません。保育園に行き始めても、二、三回泣いたくらいでした。
夫が大好きな長男は、夫が仕事に行くときは何度か泣いていましたが笑

次男は逆に私のことが大好きで、
私が離れるとよく泣きました。
赤ん坊の時は、長男同様夜泣きもせず、よく寝て、病気もあまりかからず、
すくすく大きくなりました。
長男が私を呼んでくれるからか、次男は「はは」とわりと早く呼べるようになりました。
長男の赤ちゃん返りを心配しましたが、そんなこともなく、
弟のことをよく可愛がってくれました。
「お兄ちゃんだから」とは絶対に言わないようにしようと思ってきましたが、彼は根っからのお兄ちゃんでした。
逆に次男は、幼稚園に通うようになるまで兄のために電車が好きなふりをしていたくらい兄大好きです。
今はよくケンカをしますが、お互いが凄く好きで、一番の遊び仲間だということをよく分かっているようです。
どちらかがインフルになったり、ノロになったりすると、
寄るなと言ってもきかなくて必ずもう一人もかかります。
そして最後に私がかかる、というオチも決まっています。
(今回のコロナは、長男だけで食い止められたことは
 大きな一歩だと感じます!)

産む前は、絶対に自分には子供なんて育てられないと思っていましたが、
子供はちゃんとひとりでもう生きているので、
ある程度環境を整えるだけでも十分なんだな、と分かりました。

色々、前の職場では可哀そうだと一部の人に言われまくりましたが、
うちはうちで、息子たちは幸せだと言っています。

おっとり長男と、怪獣な次男のことも、
これからnoteに書いていくと思いますので、
よかったらまた読んでください。

今までのは、こんなかんじです。




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