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個人的な過去のことからのしくじりと反省・後悔(第9章)

第8章の冒頭で触れたスパルタ教育(とゆとり教育)、言葉の暴力について等。
ここまで色々と書いてきたこと

ほぼスパルタ教育ですが、そのことについて書いていきます。
(ここからははてなブログでは触れてません。こちらでは以前書いたことを改めて書いていきます)


ゆとり世代・教育とは

ゆとり教育が始まった2002~2010年までに義務教育を受けた年代
(2011年に改訂して脱ゆとりとか言われていました。すれ違いです)

私もそこに入ります。年齢に関してはnote最初の投稿をご覧いただければ。

中身は・・・・勉強面に関しては言えないですが笑これは言えます。

週休二日(土曜・日曜)お休み
(信じられないと思いますが土曜も学校でした。入学して数年は私も経験しています

これには助けられました。学校嫌いでしたので。たとえ午前中まででも嫌なものは嫌だでしたので・・・

 周りの人たちはゆとり世代だとかゆとり教育だから甘々で受けていただろと思いでしょう。

違います。
(個人的にはそう感じてます)

では、なぜそう言えるのか?

 ゆとり教育導入のきっかけにあたる説もあった詰め込み教育で中学校時代は育てたような感じです。あと、スパルタ的で担任の圧力での指導で育てたような小学校時代。
 ちなみに小学生の頃は・・・勉強という勉強はしていない笑(小学3年までは多少の記憶は残っているけど)
 総合的な学習の時間(ゆとり教育導入する2年前から始まっていたらしい)というものに力を入れ過ぎたのかあまり勉強したという感じでもありませんでした。ある教科だけ力を入れたという感じでした。

 あと、基本的な教科だけじゃなく、道徳もよく潰れることが多かったように感じました
 だからこのいやそこまではここでは書きません。総合的なのにかなりの時間を割いてやっていたように感じました。(ちなみに中学もそこまではしなかったのですが、なぜかやっていないような気も)

 そのためか、高学年から本格的に始まった全国学力テストその1回目で出来の悪さにテスト中に怒鳴り散らされてテスト後に𠮟られることになりました。(その後頭が悪いからなと笑いながら言っていたような気も)
 ちなみに中学もやり・・・𠮟られることはないような気もしましたが、先生方にとっては不満は残ったような感じも。
 秋田県では学力テスト強いと言われていますが、私たちの代はさほどでしたので、点数を下げた要因だと反省しております。笑
 ちなみに小学生の頃に授業らしいことがあまりないおかげで、中学では相当苦労し、勉強嫌いがさらにひどくなっていきました。
(それ以上に学校生活に慣れるまでが3年はかかりました)高校生でようやく多少の楽しさもでましたが、ほんの数ヶ月でした。それでもまだいい方なのかもしれません。

ゆとりと言われても・・・

私自身はゆとり教育が始まった頃のゆとり初期です。

・お腹が痛いといえば即、帰宅 は?いい加減にしろよと𠮟られる
(と心が弱いと言われることも)
今でいう体調不良。それは許されるわけもなく。無理することが正しい。そうしないと迷惑だ。倒れてしまったらどうなるか。立ち上がれ、それでも  それ以上は体調不良でも無理をすることが美学という価値観に戻ってしまうので止めます。

・授業中に教室を走り回っても怒られない
普通に叱られます。そして周りから避けられます上に一生・・・
(とはいえ、多動性ということで落ち着きがない。障害ということもあります。もちろん、そうなのか一般の方が決めつけるわけにもいかないが、早くしろという周りの圧力で負けても診断がでるのはそれぞれ異なるし心療内科・精神科も診断待ちが多いのが実情です。それでも早く診断しろとか決めつけることもどうなのかな・・・と思うけど)

・運動会の徒競走で全員手を繋いでゴール
ありえない。そもそも運動会は小学生の頃しかない気も
(結果がすべてだ。中学ではそうでした。みんな一緒よりも格差を作ろうとしていたのかもしれない。負け組・勝ち組、努力を決めつけて理不尽に試すこと。その当時の大人達にとっては。これが社会だということを経験させるために)


暴力までとはいかなくても、言葉の暴力ならいくらでも
理不尽に𠮟られたことも数多く経験。
都合主義でいくらでも悪いことしても正論に変わることもある。
(例えば・・・馬鹿者・大馬鹿者・黙れ・いい加減にしろ 黒板・机を強く叩く なんでこれができない、やれないのか 1年生あるいは幼稚園からやり直せ 死ねとまでは言われてないのですが出ていけとかも)小学生の頃からずっと言われてきました。何か言いたいければ反論しろと思っていたのかどうか・・・

小学生の頃、教えてやるよりも自分で考えろ。考えろと𠮟る
(自立するためとはいえ、教えて自分でやる。工夫することではなく、教える前に自分で考えろと一方的に)家庭で教えてもらえなかったのかと思われることも。なお、中学で自分で考えてやったら怒られることも。
(勝手にやるなと)

物事教えるときや指摘する時は否定から話せ
聞かない場合はクラスメイトだろうが𠮟れ。
私たちの代でそれをやるとみんな離れていきます。

わからない 知りませんでした。は済まされない・言えない小学校生活
(たとえわからないと言ったら𠮟られることに。わからないということは済まされないと今でも思ってしまうほど。知ったかぶりしてても知ってますとかわかりますと言わないといけない感じが今でも

一人のミスはみんなのミス
前の章でも触れた連帯責任も小学生の頃から経験してきました。勉強も作業もすべての面において。

文句等言われても耐えろ。心が弱いんだ。(分かりやすくいうと、誹謗中傷を受けても耐えて見せろという感じでしょうか)

 それ以上は別の投稿や過去のことに書いたり、繋がることもあるので、この辺で

なお、これは私の体験談も含めているのでゆとり教育でこう受けたとは限りません。

𠮟られたことがない 私にとっては違う。
 普段から常に叱られ、叱られない努力をして、周り(同級生)に良い顔するよりも先生方から叱られないようにする。そのことが当たり前のようにやってきたのに。褒められたことよりも𠮟られたこと・怒られたことを覚えていくことになっていきました。

 ゆとり世代はと言われても、私自身はそう言うことへ少し怒りもありました。みんな一緒にではなく、逃げることが許されず、勉強も学校生活も全てにおいてのスパルタ教育で育ったと。
 そのおかげで過去のトラウマがここで数多く生まれ、打たれ弱いでも十分打たれてきた。ストレス耐性も耐えに耐えた、これでもかと。大人になってもいまだに覚えています。褒められた記憶よりも𠮟られる記憶が残ってます。真面目にやる上に重要と思われたか、中学時代褒められたのですが、成功体験の記憶を削除することが成長へ繋がると確信していました。

しかし、それが今でも苦しみとなっています。

先生方からの怒鳴りもあるけど同級生の雰囲気も

先生方のスパルタ。同級生のゆとり。この2つが常に戦っていたような感じもありました。私なりの感じ方ですが。
(私が感じたことなので、すべてではないと思います)

ここはゆとり世代だなと思われてもな部分を先ほどの記事から。

・競争を知らない。
・すぐ逃げ出す(ここでは責任感あるところ)
・物事を軽く見る
・自主性がない

 競争に関しては・・・・どうだろう? 
 ただし、みんな一緒にな雰囲気があり(差別的の対象は例外な部分は否定できなかったかな)、部活での争いがなかった。がちゃんと部活やろうのところで言い争いはありました。レギュラー争いとか部活ではよくある風景よりも、みんな仲良くさぼってでも楽しければ結果なんていいやと。
勉強(と学校生活や家庭)によるストレスなのかどうか・・・

 自主性がないことは・・・なんとなく逢っている気も。いや合ってます。

・1人が進むとみんな進む。1人がいいとみんなその意見がいいと。

・めんどくさいことはやりたくない。他の人で任せようとする。

・その場が楽しかったらいい。迷惑かけることはわからず想像力を欠けた行動も。

・アリのようについていく。小学校から中学までずっとそんな感じでした
(めんどくさいからという理由があると思います)

それで𠮟られることもあり、反対派にいってどうにか議論をというときもありました。それがいい方になっていったのかはお察しください。
 

すぐ逃げること(責任あるところは避ける)や物事を軽く見ることはまとめると・・・ありました

やりたくないから他の人に押し付ける。
押しつけておいて後は知らないふりする
。思いやりの心はなかったように(ただしお友達には押しつけない。押しつけてもいい人には遠慮なく)積極的に責任あるポジションにというのもほぼ全員がしたくないというケースもありました。

ちなみに押しつける相手は・・・私になることが多かったです。必然的に私しかいない感じに。真面目だしという理由説もあったかなかったか。
小学生の頃は無条件に責任あるポジションに就くこともしばしば。(そして中学でミスしたら、しないほうがいいと担任から私が知らないうちに陰口のように広がっていくのも)そして文句や陰口のターゲットにも。

 その陰口も噂話も当時はひどかったという感じも。プライバシーなんてはないということも。愚痴も言ったら広がることやプライバシーも遠慮なくという感じも。
 当時ブログや学校の裏掲示板的なもので色々とあったらしい。当時の私にとってはよくわからない上に、そのことでよく怒鳴られたことも。
 まぁ物事を軽く見て問題も結構起きて、連帯責任で𠮟られることもありました。
 それが今のSNS上でも通じるところもあるし、学んでないけど教えてもらってないと主張するかもしれません。別に友達通しだしいいだろ的な感じもあるかも。


生きるために
生き残るために

利用・偏見・誹謗中傷・差別
それらが当たり前であり


これが社会だということ


これが社会なら

自殺しやすい

今の世の中になって・・・・


(余談ですが、その経験が活きてしまっている。が、同時に自己肯定よりも自己否定が上回っている。それも取り返しのつかないことに)


この続きは次の章で

12/29 追記

続きです。
(2023年内で終えることは困難になったので、年明けから改めて再開します)

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