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東国は、なぜ吾妻(あづま)なのか  吾妻鏡の今風景22

『吾妻鏡』とは、「東鑑」と表記されることもあり、吾妻(あづま)は東(あづま)、東国。鏡は鑑(かがみ)で手本や模範。となると、東国の手本となるような公式記録・・・いや、手本にしてはいけないような内容もあったりはするが。鏡が本性を暴く呪具であると考えるなら、真実の記録というような意味になるのだろう。
 
では「東」はなぜ(あずま)なのかといえば、東の地を吾妻(あづま)と称したことが語源。しかし吾妻を直訳すれば「吾が妻(我が妻)」→My Darlingで、それは『古事記』に記された倭建命(やまとたけるのみこと)の故事から。

『古事記』(景行記)によれば、倭建命(やまとたけるのみこと)の東征において、走水で暴風雨が起こった際に、荒海を鎮めるために弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水。倭建命は東征の帰りに足柄山の坂本(関本)を登り、(東を向いて)三度「阿豆麻波夜」(あずまはや)と歎いた、とある。



注・景行天皇、すなわち倭建命の父は第12代天皇、実在したとするなら紀元4世紀頃の在位。

「自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦、平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮処、其坂神、化白鹿而来立。爾、即以其咋遺之蒜片端待打者、中其目、乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云、阿豆麻波夜。<自阿下五字以音也> 故、号其国謂阿豆麻也。(景行記)

『古事記』は、なんちゃって漢文みたいな感じで、<自阿下五字以音也> のような部分はストーリーには関係ありません。
「阿豆麻波夜」(あずまはや)とは、「我が妻よ、はや(ああ、という感嘆詞)」と翻訳される。「阿豆麻」の阿は「吾」(私の)、中国語の「阿」(ナントカちゃん)をも連想させるけど。「豆麻」は妻(つま)の当て字。ひらがなもカタカナもない時代、豆(つ)、麻(ま)、と、それぞれ音をあらわす。波夜(はや)は感嘆詞で、はあ、とか、ああ、とか。波(は)、夜(や)、もそれぞれ音をあらわし、波や夜とは関係ない。だから<自阿下五字以音也>となる。

つまり、倭建命が失った妻を偲んで「我が妻よ、ああ→Oh My Darling!」と歎いたことから、東国を吾妻と称するようになったとする。故に其の国(東国)の謂れは阿豆麻(あづま)なり。
 
しかし、この理由を知った高校時代、私は落胆した。それこそ波夜~と歎きたいくらいに。大和朝廷が企てた東征という侵略戦争そのものに問題があるのはいうまでもないとしても、征服者の言動が土地名になってしまうなんて。倭建命の東征で夫を失った大勢の妻たちの嘆きはいったいどうなるのか。吾妻は吾夫でもあるのではないか。

『古事記』では倭建命は足柄の坂から東を向いて「阿豆麻波夜(あづまはや)」と歎く。『日本書紀』では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が碓日嶺(うすひのみね)に登りて、東南(たつみ)のかたを望んで三たび歎きて「吾嬬(あづま)はや」とのたまふ、とある。「碓日嶺」とは、群馬県松井田の「碓氷峠(うすいとうげ)」であったという説と、神奈川県箱根の「碓氷峠」という説がある。どちらが本当なのかはわからないが、群馬県松井田の碓氷峠であるなら、足柄からはかなり遠い。

『古事記』は天武天皇(てんむてんのう)が、舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて誦み習わせた「帝紀(ていき)(皇統譜)」と旧辞(きゅうじ)を、のちに元明天皇(げんめいてんのう)の命令で太安万侶が撰録(せんろく)したもので、和銅5年(712年)に完成したが、その内容はそれより以前の言い伝えとなる。
『日本書紀』は、『古事記』よりもちょっとだけ後に編纂されたが、「帝紀(皇統譜)」だけでなく、「百済記」なども参考にしているとされており、名前表記などだけでなく、内容もちょっと違うところがある。ヤマトタケルノミコトの東征に関していえば、『日本書紀』は、盛った内容(想像も入っているのではないか)になっているような気がする。

日本の歴史書としては『古事記』が最古とされるが、同じ頃にさまざまな国の風土記も書き記された。『常陸国風土記』だけでなく、『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)とか、『出雲国風土記』(いずものくにふどき)とか。かつて、なんと陸奥国風土記もあったらしいが、しかしほとんどの風土記は失われてしまい、残っていない。(そして風土記には、古事記には登場しない神々の名も多く記されている。)
 
『常陸国風土記』は奈良時代初期の和銅6年(古事記完成の翌年)に編纂され、その内容は「古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語」。本記によれば、相模国の足柄の坂から東にある県(あがた)はすべて我姫(あづま)の国と称された、とある。吾妻と我姫、文字が異なるが意味は同じ。

いずれにせよ吾妻とは坂東、足柄峠や碓氷峠(群馬県)の坂よりも東の地、足柄や山北、秩父や軽井沢の山々に囲まれた、巨大な窪地のような関東平野のこと。


さて、神奈川県二宮町の「吾妻山」は、大磯よりもやや東にある小高い丘のような山。走水で入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛が7日後に流れ着いたのが、西湘二宮の海岸で、その櫛を山頂に埋めたことからこの山が吾妻山となったとする。のちに弟橘媛の小袖が海岸に流れ着き、袖ヶ浦海岸と呼ばれるようになったとされる。しかし、走水で入水した弟橘媛の櫛や衣類が、はたして西湘の海岸へと流れつくものなのかどうなのか。


吾妻山山頂


 
このあたりには諸説あり、弟橘媛が入水してのち、走水の浜辺に櫛が打ち寄せられ、その櫛を納めたところが「御所ガ崎神社」(かつて走水にあった神社)という言い伝えもある。
また別な説では、弟橘媛の櫛は木更津の海岸に流れ着き、海岸をさまよっていた倭建命がその櫛を拾い、のちに龍ヶ崎に埋めて櫛塚としたとする。


ところで、『日本書紀』では、日本武尊は陸奥国まで北上したとされるが、そもそも古代の陸奥国とは、現在の茨城県の久慈川以北のことですので。



『常陸国風土記』では、倭建命(やまとたけるのみこと)は、倭武天皇(やまとたけるのすめらのみこと)と記され、助川で鮭を獲ったという記述があり、そこは現在の日立市助川町なので、すでに古代の陸奥国エリア。さらに藻島(めしま)の駅に到達したという記述があり、そこはたぶん日立市十王町伊師浜、鵜の岬があるところで、もちろん古代の陸奥国・・・どころか夷の地である。『常陸風土記』の記述を読む限りでは、倭建命の東征の記録は五浦(北茨城市)あたりまでのようであったらしい。


日立市の海岸にて撮影

ヤマトタケルノミコトの故事から、東国は吾妻となった。
が、のちに辺境の警護にあたる防人たちが東国から徴兵されるようになり、防人たちにとっては、東国こそが、妻を残してきた吾妻になったのではないか。吾妻はや、と東を向いて嘆いたのは、東国をあとにしなくてはならない防人たちであったのではないか。

足柄の山から流れる水を集めた酒匂川は、かつて大和朝廷の支配領域と、未開の東国との境界であったのだろう。京から東国をめざす旅人たちは、足柄の山を越え、酒匂川に沿って海へと下り、海岸を東へと向かって吾妻山を通り越し、大磯、江の島。そして鎌倉へと到る。             (秋月さやか)



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