村上春樹風パスタの風景
村上春樹の小説の主人公は、一貫してパスタを食べ続けている。自分が作ったり、レストランで食べたり、食べている間に電話がかかってきて、物語が動き出すことも多い。
作品中のパスタ
「風の歌を聴け」では、缶ビールを飲んでいると電話がかかってくる。
「1973年のピンボール」では、事務所で女の子が作ってくれたスパゲティーを食べていると、電話のベルが鳴った。
「羊をめぐる冒険」では、十二滝町の鼠の別荘で、スパゲティーを作る。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では、リファレンス係の女の子とイタリア料理店で食事をする。
「ノルウェイの森」では、ワタナベはイタリア料理店でアルバイトし、直子に手紙を書く。
「国境の南、太陽の西」では、自宅で妻とパスタを食べていると、険悪な雰囲気に陥る。
「ねじまき鳥クロニクル」では、自宅でスパゲッティーをゆでていると、謎の女から電話がかかり、物語が始まる。
「ダンス・ダンス・ダンス」では、自宅でスパゲッティを茹でるための湯を沸かしていると五反田君から電話がかかってくる。
「スプートニクの恋人」では、ギリシャの小さな島のコテージでパスタをつくる
「1Q84」では、ふかえりが天吾のアパートに泊まりに来る前に、スパゲティーを食べる
「騎士団長殺し」では、私は秋川笙子とまりえにパスタをふるまう。
「街とその不確かな壁」では、私はブルーベリーマフィンの彼女にスパゲティをつくる
パスタの同時代性
村上春樹の創作活動は日本におけるパスタ市場の成長と軌を一にしている。
その初期、1970年代の日本ではバジリコは一般的な食材ではなく、大葉や紫蘇で代用されることも多かった。1980年代になっても、バジリコを食べるために自宅で鉢植えする人がいた。
戦後の日本では、食糧管理制度により小麦は管理され、国産パスタは必ずしもパスタ向きではない国産原料を使って生産されていた。輸入パスタは1971年1月に解禁されたが、当時大学生だった村上春樹が、外国の専門書で研究していたとしたら、それは相当に画期的なことだったはずである。
1980年代頃まで、多くのレストランの「スパゲティー」はナポリタンかミートソースで、注文毎ではなく、麺をまとめて茹でておき、注文があるたびにそこから麺をよそって供されることも多かった。結果、レストランによっては、かなり悲惨なものが供されることも稀ではなかった。
しかしながら時代は進み、デュラム小麦のパスタと、それによってもたらされるアルデンテという食感の認知度が高まり、本物のパスタに対する欲求が高まった。
BRUTUS1982年6月1日号で村上春樹は「本のある空間をめぐる4つの断想」という文を書き、その中で自らの書斎をスパゲティー工場と呼び、超短編小説を書いた。
日本のレストランや家庭において、パスタが大きく変貌するきっかけとなったのが、1985年9月のプラザ合意によってもたらされた円高だった。
1ドル240円だった為替は125円になった。輸入品が一気に安くなり、1986年には国産メーカーのパスタの多くがデュラム小麦化された。
急速な円高を背景に、若者にとって海外旅行と輸入品が一気に身近なものとなり、様々な部分で急激な国際化が進んだ。
輸入食材を家で調理したり、本場で修行したシェフのレストランでパスタを食べることもその一つだった。
村上は1987年から88年にかけてローマとロンドンで書き上げた「ダンス・ダンス・ダンス」には、当時の東京の若者の典型的なパスタレシピが冷凍保存されるように記されている。
当時、赤唐辛子の扱いについては、意見が分かれていたが、村上春樹が「種取り出し派」ではなく「まるごと派」であったことがうかがえる。
社会的主張としてのパスタ
パスタは単なる食材だが、イタリア産のパスタを食べる事が、社会的態度の表明になり得た時期があった。
1986年4月26日、当時ソ連だったウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で事故が発生し、トルコやギリシャやイタリアやスウェーデンから輸入されたヘーゼルナッツ、月桂樹の葉、アーモンド、トナカイの肉、アイスクリームペーストから基準以上の放射能が発見され、輸入停止となった。
幸いパスタからは基準値を超える放射能は発見されず、輸入禁止にもならなかったが、日本の生協の一つである生活クラブは、独自の基準でイタリア製パスタの取り扱いを中止した。
英国の科学雑誌「Nature」の1987年9月4日号は、日本の生活クラブによるイタリア産パスタ禁止を伝えるとともに、イタリア産パスタの摂取によって、人間が自然界で受ける放射線レベルを超えるには、クラブの会員は1年間に数トンのスパゲッティを食べなければならないだろうと報じた。
当時の日本政府は、基準値の範囲内であるとして、イタリア産スパゲッティの輸入を規制することはなかったが、国内の報道では危険論が優勢だった。
当時の日本の消費者は、判断を迫られた。結論から言うと、若者を中心とした消費者は、イタリア産スパゲティを食べることを選択した。
それは幕末の開国鎖国論議の1980年代風ミニチュアで、一つの社会的意見の表明でもあった。そしてその判断基準となったのは「イタリア人はどうしているんだ」ということだった。
インターネット以前の時代、情報はマスコミや雑誌などのメディアか、クラブやパーティや飲み会などを通じた口コミで流通した。「風評」という言葉が一般的ではなかった時代だった。
実際に現地に旅行に行った人の話を含め、情報を総合すると、欧州の若者たちが躊躇なくパスタを食べていたことが広まり、決着がついた。
その後イタリアに旅行した際、列車で同乗したイタリア人の若者から、チェルノブイリ事故後の厳しい時期に日本がイタリアのパスタを輸入し続けてくれたことへの感謝の言葉をもらった。
その時は20数年後に日本で原発事故が起きて、大変な状況に陥ることになるとは、思いもしなかった。
村上春樹はチェルノブイリ事故の半年後の1986年秋にイタリアに転居した。
滞在中に書いた「ノルウェイの森」は1987年にベストセラーとなったが、著者が帰国することなく、欧州に長期居住していることは広く報じられていた。
村上夫妻は1989年秋に帰国し、イタリア~ギリシャ旅行記「遠い太鼓」が翌1990年に発売された。そこでは、延々とパスタについて語られていた。
そして、描かれているイタリア人像は、当時の東京で総合された情報と見事に一致していた。
「遠い太鼓」で、チェルノブイリが言及されているのは一箇所、ロードス島のホテル支配人が語る過去の災厄としてである。
村上が記録した言葉を、東日本大震災、福島第一原発事故、パンデミック、ウクライナと中東の戦争、福島第一原発の処理水放出を経て、インバウンドに沸く2023年の東京で読むと、改めて感慨をもたずにいられない。
そしてこういった際の村上の態度は変わらない。
村上春樹はフィクションの紡ぎ手として、現実と虚構を錯綜させる力量で知られているが、その作品のみならず、作家自身の行動が「何か」を呼び寄せてしまうことがある。村上本人が意図したことではないと思うが、それはエッセイも含めた大掛かりな仕掛けにも見えてしまう。
けだし、柄谷行人の村上春樹の小説評が正鵠を射ていること、改めて感じ入ってしまうのである。
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