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小林の表現者としての原点とは。小学校から大学までの経験と思考をなぞる。

 自分をギリギリまで追い込み、その先にある「笑い」を追求し続ける小林賢太郎。後輩芸人であり、小林の舞台にも出演する南は小林の活動に対し「お客さんや視聴者の皆さんを楽しませるために生活のすべてを注いでいる姿勢は本当にすごい。」とコメントしている。ストイックに笑いを探求し続ける表現者としての原点とはどこにあるのか。小学生から今に到るまでの軌跡を分析し、明らかにしていく。

嘘つきな子供が魔術と出会う

公式ホームページ上で小林は、「子供のころ好きだった遊びは何ですか?」という質問に次のように答える。

漫画もおもちゃも、自分で考えて、つくりだすことが好きでした。漫画を描くのが好きな友達を集めて漫画雑誌をつくって、学級文庫に置いたりしてました。お中元やお歳暮の時期には、必ず空き箱をもらっていました。立体迷路やら、オリジナルのトランスフォーマーをわりと本気でつくった記憶があります。 葉っぱや虫の死骸を地面に埋めて、1年後に掘り起こして化石になっていないかどうか調べました。なっていませんでした。

物心ついたときから”自分で考えて、つくりだす”ことが好きだった小林少年。上記の答えからは無邪気に創作を楽しむ少年の姿が思い浮かばれる。

小学生時代から、笑いに対する興味みたいなものは大きいものとしてあったのかという質問に対して、小林はこのように答えている。

 小学校の時から漫画雑誌をですね、同じ学校の漫画を描くのがすきなやつらを集めて、僕が編集長で作ってたんです。いろんなクラスの学級文庫に置いていた。それを読ませて笑わせるっていうのが、もしかすると人を笑わせることの最初かなあという。
(『CUT』 2002/4/19 4 ロッキング・オン)

そのころの性格について小林は「もともとそんなひょうきんなほうではなかったので、僕自身が笑わせるってことではあんまなかったんですけど、なんか作品出してそれを人が笑うっていう感覚はその頃かなって気がしますね。」という。自分の作ったもので人を笑わせるという方法に行き着いたのは、「面白い人になりたい」という羨望からだと小林は明かす。

クラスの中にも面白いヤツがいる。それがすっごくうらやましかったんです。全然それになれなくて、どうしたもんかなあと思って、あの手この手でマンガ描いたり、クラスの演劇の作・演出やったりとか。
(『CUT』 2002/4/19 4 ロッキング・オン)

面白いヤツになるため、小学生のときは漫画家になると信じて疑わなかったと小林はいう。ストーリーをつくり、ギャグを考え、前述の学級文庫に並べる同人誌をつくることに没頭していた少年時代。小林はどんな性格の子供だったのか。小林は少年時代、自分は「嘘つき」だったと明かしている。

子供時代は嘘つきでしたね。…大人に嘘をついてたんです。子供にしてはませてたと思うんですよ。例えば、五、六歳の僕がレゴブロックとかで手遊びしているときに、大人が「ケンちゃんそれなあに?」って聞くじゃないですか。で、「えっとね、ヘビ」って答えるわけですよ。でもヘビを作ってたわけじゃないんですよ。ブロックが長くつながることが楽しいからやってるだけ。なのに聞かれた瞬間にタイトルをつけなきゃいけないわけですよね。だからそんなのチョー愚問だと思って舌打ちしてましたね。大人に対して。…(中略)要求されたことに答えてる感じもしたんです。小学校のとき、将来の夢とか書かなきゃいけないじゃないですか。…特殊撮影のスタッフになりたいって書いたら子供らしくないって心配されるだろうから、結局パイロットって嘘書きました。(『広告批評 』マドラ出版 321 2007/12/1 19頁)

」というのは小林賢太郎の作品において大きなキーワードである。
小林自身が好きな世界は超正義、超虚構、ファンタジーな世界観だと言う。自身のエンターテイメントクリエイターとしてのあり方として「ミッキーマウスでいたい」と発言する。ディズニーランドが好きな理由として「嘘を突き通した世界であること」と発言している。
 「小林賢太郎テレビ」のインタビューで、鈴井は小林の作品についてこのようにコメントを残している。

小林君の作品は、客席でリアルに見ているのに夢を見ているような、どことなく現実離れしているような感覚がある。賢太郎君の作品は、現実だけど夢のような世界に連れてってくれて、心地よい気持ちにさせてくれるんですよね。
(『プラスアクト』 ワニブックス 25 2017/11/24 15頁)

このコメントに対し小林は、「僕は、作品はいい意味で”作りものでありたい”と思っているんです。」と答える。嘘つきの少年が、嘘をエンターテイメントに昇華させる驚きに出会ったのは中学時代だという。「はじめてお笑いを体験したのはいつか」という質問に小林は次のように答えている。

最初はお笑いじゃなかった。
実はね「11PM」って番組を中学生のときに、こっそり見てたらMrマリックが出てきた。殴られたらいたいじゃないですか。で、くすぐられればくすぐったいじゃないですか。でもそれは手でじかに触れてるからこそできることで、Mrマリックは客に触れてないのに感動したりすごいって言ったりドキッとしたり。…(中略)
手を触れずに感情をコントロールしたっていう。舞台上から何かする、そしてお客さんに何らかな感情的な影響を与える、これは凄いと思って、
はじめて手をつけたのが中学校の時の舞台の作演出だった。ほんとに最初に興味を持ったきっかけは彼だった。
(『BUZZ 』ロッキング・オン 401 2002/9/17 131頁)

お笑いを体感し、「ステージ上からお客さんを笑わせるという種類のエンターテイメント」に興味をもったのは漫才やコントでもなく、Mr.マリックのマジックであった。
 テレビでマジシャンがお客さんを驚かせたり感動させたりしている姿を見て、強烈に憧れたのが中学生時代であるいい、「ここに、僕の『目の前のお客さんを楽しませること』の原点がある」と著書のなかでも小林は語る。

ステージエンターテイメントの魅力を体感した中学時代

何故笑いっていうものをテーマにして表現活動をやろうとしているのかという経緯に関して小林は、インタビュー記事で中学時代に劇を作・演出した経験を語っている。

そもそもほんとの大元は中学校時代にさかのぼるんですけども、中学3年生の文化祭でですね、体育館で演劇を見せるークラス対抗みたいなものがあって。そん時に僕が、何の根拠もない自信で、監督というか、作・演出みたいなことをやったんですよ。コメディだったんですけど。あろうことかそれで優勝してしまって。『あ、これは面白い』って僕の中にまず根付いたんですね。ステージ上からお客さんを笑わせるという種類のエンターテイメントにまずその時点で手ごたえを感じたんです。
(『CUT』 2002/4/19 4 ロッキング・オン)

中学時代の演劇に対して、小林は演じる楽しさより作るほうに喜びを感じたと明かす。

どちらかというと演じるほうより作るほうに。最初は中学校のときですけど、3年生がクラスで一本お芝居を作って、一、二年に見せて投票されるという催しものが、なぜか僕らの中学の文化祭にはありまして、僕が作・演出・監督をやって、クラスのみんなを動かして、長いコントを作ったことがあるんです。そのときたまたま優勝して、それで調子づいた。あ、オレの仕事はこれだ(笑)エンディングで、みんな並んであいさつしたとき、すごい拍手がくるんだけど、だれ一人、一番はじっこに立ってる僕が、それだけ面白い話を作ったとは思ってない、その状態が気持ちよかったんです。クラスで一番面白いヤツじゃなかった僕が、それだけ面白いことを企てたということ。やっぱり、僕のかんがえてたことは間違ってなかったということが確かめられたことが嬉しかった。
(『広告批評』 2007/12/1 321 マドラ出版)

 マジックはタネがあり、観客にタネを明かさずに嘘をつきとおすことで不思議を楽しんでもらう。小林は、「一番はじっこに立ってる僕が、それだけ面白い話を作ったとは思ってない、その状態」が小林自身がマジックのタネになった快感を得た最初の経験であったとも、インタビューで語っている。

人がなぜ笑うのか分析し立証する高校時代

「面白いヤツになりたいという願望」は、高校生になっても小林の芯として残る。高校生のときに、「面白さには、作為的に作った面白さと、その人が持っている面白さとがあって、両方ないと成立しない」と結論にたどりついたと小林は語る。
 小林は高校生のときはどんな学生時代を過ごしていたのだろうか。小林は、高校の時は「人がなぜ笑うのかの構図について分析し答え出しをずっとやっていた」という。

たいていクラスの中に面白いヤツというものがいるでしょう。そういうやつはクラスの人気者になって、彼の言うことにみんな笑って、という状態が起きるんですけど、そういうとき僕一人笑ってないんです。
みんな、なんでそんなに面白がれるんだろう、あそこのタイミングでそれを言うんだったら、語尾はこうしたほうがいいんじゃないかとか、僕ならこういう風にいうのにとか、考えちゃうんです。
「ねえねえ、いまあいつなんとかって言ってるけどさ、オレが考えたこういうののほうが面白いよね?」って言っても相手は笑わないんですよ。
「そうかもしれないけど、コバケンはみんなを笑わせてないじゃん。あいつは笑わせてるじゃん、みんなを。」って。この違いはなんだろうなって考えました。結局面白い言葉を考えることと、面白い言葉を言って笑わせるのは違う作業なんですよね。
(『広告批評』 2007/12/1 321 マドラ出版)

その分析を繰り返して、"駄洒落ひとつがネタだったとしたら、それがどういう種類の人格の上に乗ってるとおもしろいのかっていうのが、統計がとれてきた" のだという。

高校生のときは、舞台とかお話作りに興味はあったが、美術大学に行こうと前から決めていたため、部活はやらないで美術大学受験予備校に行っていた。しかし、高校3年生のときに急遽美術部と演劇部に入部する。

僕、先輩が得意じゃないんですよ。それで3年生になって、先輩もいなくなったし楽しそうだから、両方やっとこうと思って、急遽演劇部と美術部に入ったんです。でも演劇部は女の子が多かったからお姫様が出てくるようなものをばかりやっていて、これはつまらないと思って前座でいいからコントやらせてくれって先生に言って、友達二人と三人組でコントをやってました。
(『広告批評』2003/9/1 274号 132頁)

 コントを選んだ理由として、「僕は自分のことをずっと面白い人間だと思っていたんです。ところが、クラスの中で面白いヤツというポジションでは決してなかったと、あるとき気付いた。 僕は、人間が面白いんじゃなくて、作るものが面白いのか。じゃ、どうすればいいんだろう、そう思って、そういう(コントを演じる)動きをとった」と語る。
 コントの形態の特徴は、小林が「面白さには、作為的に作った面白さと、その人が持っている面白さとがあって、両方ないと成立しない」という小林が導き出した結論が大きく関わっている。

コントという形態は、日常会話ではないんですね。でも、コントなら、自分に都合のいいシチュエーションを作れる。
なにか面白い言葉や表情ややりとりを思いついたら、それに一番ふさわしい状況を勝手に作っていいわけです。日常という中に生きる状況がくるとは限らない。と、すると、コントというのは、実はおいしいのではないかと。
(『広告批評』 2007/12/1 321 マドラ出版)

小学生から続く「面白いヤツ」「人を笑わせている人」に対する憧れで、「人はなぜ笑うのか」を分析しその理論を立証してきた小林賢太郎。しかし、小林の中のお笑いの立ち位置は”趣味”であった。

手品の実演販売で
パフォーマーとしての楽しみを知る

超魔術をはじめてみたのは中学時代。高校時代に、マリックのパフォーマンスを自分でもできるようになりたくて、手品を研究し始めたのだという。

マリックさんも、同じ人間だから、この人の言う通りやったらスプーンも少しくらい曲がるかもしれないって自分でも全然動かなくて、百円玉にタバコを押しつけてもこれっぽっちも入っていかない。それで、もしこれを全部嘘でやってのけたら、実は手品なんだけど、僕も超能力と言い張れるかなと思って、手品の本を買ったり、手品グッズ買ったりして、研究を始めたんです。それで研究を重ねていくうちに、「あれっ?」って。「このネタとこのネタを合わせて、こういう演出をすると、マリックさんがテレビでやってたあれになるんじゃないか」。そこで初めて彼が手品をやってたことと、それがただの手品ではないことを知ったんです。
(『広告批評』2003/9/1 274号 136頁)

手品の練習中通っていたデパートの手品売り場のおにいさんとも仲良くなり、「この道具で、こんな見せ方を思いついたんですよ」なんてことを言いあう、けっこう深いマニア同士になっていた小林少年。

 小林は高校生になって、美大受験のためデッサンに没頭する。のちに入学する多摩美術大学では版画科のリトグラフを専攻する。その理由として「デザイン方面にすすみたかった。印刷の方向に限りなく近いものを、ということでリトグラフを選んだ。」と小林は述べ、その時の心情を小林はこのように語っている。

美術の大学に行って、デザインであるとか広告であるとか、そっちの世界で飯を食うんだろうなと思って(美術大学へ)進んだんですが、頭の片隅にはステージエンターテイメントの魅力みたいなのがありまして。で、僕の中の位置づけとして美術は、これはもうご飯食べる仕事。で、ステージは趣味だと思っていた。だから中学校の時に感じた楽しさはきっとずっとやるんだろうなと。
大学入って、趣味ですから、お笑いサークルとかあったら入りたいなあと思ってたんですよ、そしたらなかったんでしょうがないからこいつと一緒につくったんですけど。
(『広告批評』 2007/12/1 321 マドラ出版)

 

美大に無事合格し、その報告に行くと突然「”トライアンフ”やってみな」と言われて、やって見せたら「ウチで働かないか」とスカウトされ、大学生ではしばらく実演販売のアルバイトをしていたと小林は語る。

その実演販売の経験は、小林のつくるコントに大きな影響を与えている。

(手品も人を騙すものという指摘に対して)非常に僕のやってるコントと近いですね。考え方はまったく流用してます。同じひとつの不思議な現象でも、口上によって全然面白く見えることがあるんですよ。(中略)デパートでお客さんを立ち止まらせるためには、まず笑わせないといけないんですよ。それで、笑わせながら手品グッズを見せていたら、だんだん手品がいらなくなってきちゃったんです。(笑) 大体パターン化されてきて、もうネタですよ。
(『広告批評』2003/9/1 274号 136頁)

手品(マジック)が小林賢太郎に教えたものは、パントマイム未満のパントマイムなどの技術だけでなく、エンターテイメントにとっての意識もだ。

マジックを演じる目的は「だます」ではなく「楽しませる」です。観客の目的は「タネを見破る」ではなく不思議を楽しむ」です。このような見方をしてもらうためには、観客の不信感をぬぐい、演技者の流れにゆだねてもらう必要があります。確かな技術と雰囲気づくり、まさしくコントや演劇において大切なこと。
小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』130頁)


趣味に位置づけされていたステージと、生計を立てる仕事としてのデザインの比率がどのように大学時代に逆転していったのか。それは小林が進学した美術大学特有の環境が大きく関わっていた。

笑いと学校の比率が逆転する大学時代
笑いのタネがない片桐との出会い

 デザインを仕事にしようと美術大学に進学した小林は、相変わらず「人を笑かしてる人に対する憧れ」と「ステージから目の前の人を笑わせる魅力」を持ち続ける。高校時代に行なっていた「人がなぜ笑うのか」という研究に本格的に取り組んでいたという。ありとあらゆるお笑いを研究していた大学時代に、版画科を専攻して同じクラスになった片桐と出会う。その時の片桐の印象について小林は次のように語る。

大学入ってすぐお笑いの研究はじめて。で、僕なりに世の中にある笑いの公式をダダダっとこう書きだして、100種類くらいしかねえなあと思っていた。だけどこいつ(片桐)だけは当てはまらない。『なんだろう、この人がもってる人柄に力があんのか?』って思って、で、『わかった、俺の許容範囲外なんだ』と。「じゃあこの人とやったら武器が一個増えるな」みたいなのは思いましたね。
(『広告批評』 2007/12/1 321 マドラ出版)

ほかのインタビューでも片桐と出会ったエピソードは語られており、片桐は「隕石ですね、彼は(笑)。ほんと隕石で宇宙人でしたね」と小林はいう。
 よく小林は、片桐が関しては魔法使いだとしたら小林は手品師として例える。

魔法にはタネないですから、とんでもないことがおきるんです。そのかわり手品はタネがあるから失敗しない。魔法はやっぱ調子悪かったらできないですよ。片桐さんの本能的な面は僕なんかよりよっぽど有機的で面白い部分だと思いますね

あきらかに僕と違うタイプ。この人の作ってるお笑いに、トリックはない。そのことに気付くのに、時間がかかりました。最初は、きっとなんかトリックがあるはずだと思って考えていたんですけど、結局、彼は手品師じゃなかった。魔法使いというか、超能力者だったんです。タネがないんです。僕は手品師だから、全部タネがある。彼ほどすごいことはできないけれど、そのかわり失敗はしないというのはありますね。

 小林が高校時代から分析し立証してきた笑いの公式の中で全然答えが出ない片桐のキャラクターは、大きな衝撃であったと考えられる。片桐に対して小林は、「自分にないものを持っている存在」と評し、「羨ましかったですね。羨ましかったというか、僕には僕の武器があって彼には彼の武器があるということなのかなあという風に最終的には。」と羨望を持っていることを示している。

 片桐と出会い、自分にはない武器を手に入れた小林は立ち上げた落研で毎月ライブを開催しているうちに、芸術とお笑いの比率が逆転していったのだという。

中高のときは、面白いヤツというよりは絵のうまいやつ。ところが大学に入ると、みんな絵が上手い。かねてから関心のあったおもしろいヤツのほうで頑張ってたら、だんだんそっちがたのしくなってきちゃって。

そうして芸人になりたくてネタのことばかり考えるようになり、コンお茶演劇の上演だけで生計を立てる「表現を仕事にする」ことを選択するようになた。

小林の表現者としての原点はどこにあるのか

小学生から大学まで小林の軌跡を分析してきて導き出された一つの大きな核がある。それは「面白い人への憧れと、面白い人になりたいという欲」である。

『僕がコントや演劇のために考えていること』の「作・演出 小林賢太郎」の章にこれまでの軌跡を小林自身が語っているため、長い引用となるが紹介する。

物心ついたときから、絵を描くことが好きで、不思議なことが好きで、笑っている人が好きでした。好きなことを仕事にしたいけど、面白くて美しくて不思議な職業なんてありません。だから「小林賢太郎」という職業をつくるしかなかったのです。
 小学生のときは漫画家になると信じて疑いませんでした。ストーリーつくって、ギャグ考えて、学級文庫に並べる同人誌を作ることに没頭していました。
 中学生のときはマジシャンになりたくて、勉強そっちのけで手品の練習に没頭していました。デパートのマジック用品売り場に入り浸り、考えた手品のアイデアを実演販売のおじさんに報告する日々。うっとうしい子供です。
 高校生になって、美大受験のためにデッサンに没頭しました。部活は演劇部。やってたのは演劇じゃなくて演芸でしたけど。
 18歳。美大に入って、お笑いのサークルをつくって漫才に没頭しました。芸人になりたくてネタのことばかり考えていました。
 結局すべては、巧妙に仕組まれた小林賢太郎になるための行程だったのです。これが誰が仕組んだのかというと、他でもない、小林賢太郎なのです。
 僕はどうやら、生涯小林賢太郎をやっていくしかないようです。いろんな人を巻き込みながら、面白くて美しくて不思議な世界を歩き続けるのです。
 なんてわがままで恥ずかしい人生でしょう。でも、小林賢太郎がそうしろと言うんだから、しかたがないのです。
(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬社 150-151頁)

「わがまま」は裏を返せば自分のやりたい事に正直で、目指す方向にブレがないということだろう。小林賢太郎は「自分がつくったもので、目の前の観客を楽しませたい」というやりたいことを目指し、新しい作品を作っていくであろう。その原点には「面白い人になりたい」という羨望が常にある。


 


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