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第140講 国際連合の成立

140-1 国際連合の成立


国際連合の構想

 第二次大戦中から連合国は、国際連盟に代わる国際平和機構の設立について議論をかさねた。

 1941年大西洋上会談の際に示された1.大西洋憲章は、国際連合憲章の基礎理念となった。

 1943年に開かれたモスクワ外相会談で、米・英・ソ・中華民国の四大国は、2.モスクワ宣言を発表し、新たな平和機構設立の必要性を宣言した。

 1944年米・英・ソ・中華民国の四大国は、ワシントン郊外で開催された3.ダンバートン=オークス会議で、国際連合憲章の原案を作成した。*安全保障理事会常任理事国の拒否権について意見が分かれた。

 1945年4~6月、4.サンフランシスコ会議で、国際連合の基本原則と基本組織を定めた5.国際連合憲章が採択された。安全保障理事会常任理事国の拒否権について合意されたが、ポーランド問題で米・英とソ連が対立した。


国際連合の成立


 1945年10月、51か国を原加盟国として6.国際連合United Nationsが成立した。

*日本語では「国際連合」と訳すが、「国際」という単語は入っていないため、意訳である。中国語では「聯合國」と直訳している。

 国際連合は、本部を合衆国のニューヨークに置いた。⇔国際連盟はジュネーヴ。
国際連合には、7.総会11.安全保障理事会・事務総長の下の事務局・16.経済社会理事会・国際司法裁判所などの主要機関が設けられた。

 7.総会は、全加盟国で構成され、加盟国や11.安全保障理事会に勧告する権限を持つ。決議は、各国1票の多数決制で、重要事項に関しては3分の2以上の賛成で行う。⇔国際連盟は全会一致原則。このため、1948年の8.世界人権宣言ように重要な決議を行う場となる一方、パレスチナ人の土地の多くをユダヤ人(1948年イスラエル建国)に与えた1947年の9.パレスチナ分割決議(パレスチナ分割案)や、中華民国(台湾)を追放し中華人民共和国にその地位を与え10.中国の国連代表権交代を強行した1971年のアルバニア決議の様に、多数派工作で反対者をねじ伏せる場面も多くなった。

*よく、国際連盟の全会一致制が「欠点」と言われるが、9.パレスチナ分割決議(パレスチナ分割案)10.中国の国連代表権交を見ていると、多数決制にも問題があり、後世、国際連合に代わる新たな国際機関なり世界政府などが成立して、世界史が新たな段階に進んだのちに、「欠点」と評価される余地が十分にある。例えば、「当該地域や関係国の全会一致と加盟国の過半数」のような、より繊細で丁寧な意思決定の方法が模索されても良いのではないか。

 11.安全保障理事会(安保理)は、5つの12.常任理事国と6つの14.非常任理事国(1966年から10カ国)で構成され、もっとも強大な権限を持つ。経済的・外交的・軍事的制裁や諸措置を行う。

 連合国の主要国であった米・英・ソ・中華民国にフランスを加えた5か国が12.常任理事国となった。一カ国の反対で決議を拒否できる13.拒否権をもつ。ドイツ・日本は常任理事国入りを目指しているが、国際連合憲章に国名が明記されているため、構成をかえるには国連憲章の改正が必要となる。

 14.非常任理事国は、任期2年で、地域別に選出される。

 事務総長は事務局を統括し、国連を代表する。現任はポルトガル出身の15.グテーレス(任2017~)。

 16.経済社会理事会は、戦前来の17.国際労働機関(ILO)のほか、18.ユネスコ(国連教育科学文化機関)19.世界保健機関(WHO)などの専門機関と連携関係を結び、経済・社会・文化・教育に関する活動を行う。理事国は54カ国で任期3年。

 17.国際労働機関(ILO)は、労働条件改善などの勧告を行う。国際連盟に設けられた組織を受けつぎ、1946年に設立された。

 18.ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、教育・科学・文化を通じて国際理解を促進し、世界平和と安全に貢献することを目的とする。1946年ユネスコ憲章が発効し設立された。

 19.世界保健機関(WHO)は、伝染病の予防や健康の増進に寄与する保健事業の指導を行う。1948年設立。

140-2 合衆国の覇権~パクス=アメリカーナ~


パクス=アメリカーナ


 第二次世界大戦後、米・英・中華民国・ソ連の連合国四大国のうち合衆国の国力が抜きん出て、「アメリカ合衆国の力により維持される平和」=1.パクス=アメリカーナの時代が到来した。

 第二次世界大戦終了当時、合衆国は世界唯一の核兵器保有国であり、世界の鉱工業生産の約60%を占め、金の約70%を保有し、軍事力・経済力とも超大国となった。*合衆国は国土が戦禍にさらされていなかった。

 ソ連は、社会主義国として計画経済をすすめ工業力を高めたが、国土が対ドイツ戦で疲弊した。

 第一次世界大戦後も帝国を維持した連合王国だが、戦後は衰退し、帝国を維持することが難しくなった。

 中華民国では、戦後、国共内戦が再開され、1949年中華人民共和国が建国されるまで国共内戦が続いた。

ブレトン=ウッズ国際経済体制


 1944年ニューハンプシャー州ブレトンーウッズで開かれたブレトン=ウッズ会議で合衆国のドルを中心とする戦後世界の経済体制が構想され、これにもとづいて成立した国際経済体制を2.ブレトン=ウッズ国際経済体制という。

 金本位制や管理通貨制度にかわり、米の圧倒的な金gold保有を背景に、米ドルを基軸通貨として、金1オンス35ドルという交換(兌換)比率を定めて金とドルの交換を保障した3.金ドル本位制を採用した。

 4.国際通貨基金 International Money Fundは、国際金融の円滑化と為替相場の安定を目指した基金。*日本は1952年に加盟し、1964年に国際収支の赤字を理由に為替制限ができない8条国へ移行した。

 5.国際復興開発銀行(復興と開発のための国際銀行)International Bank for Reconstruction and Development。名前の通りの機関であるが、IMFが国家単位で融通するのに対し、事業単位で融通する場合が多い。*世界銀行World Bankへと発展した。*日本は東海道新幹線の建設費等を借りた。

 戦前のブロック経済への反省に立ち、自由貿易を基調とする国際貿易を確立するために、1948年には6.関税と貿易に関する一般協定(ガット)(GATT、 :General Agreement on Tariffs and Trade)が結ばれた。




140-3 戦後のヨーロッパ


ドイツ・オーストリアの占領と枢軸国との講和

 戦後、ドイツとオーストリアは米英仏ソの 1.四カ国に分割占領され、軍政による直接統治もとに置かれた。

 ドイツの首都ベルリン、オーストリアの首都ウィーンも四分割されたが、いずれもソ連占領地域に含まれていた。2.非ナチ化を基本方針とし、ナチス(ナチ党)の解体、関係者の追放などがおこなわれたが、歩調をあわせる米英仏と、ソ連の足並みは徐々に乱れた。

 ドイツでは、45年11月から3.ニュルンベルク国際軍事法廷が開かれ、ナチスの幹部が戦争犯罪人(戦犯、War Criminal)として裁かれた。ゲーリング航空相やリベントロップ外相ら12名に絞首刑が宣告された。東京裁判と並んで4.国際軍事裁判とよばれる。

 連合国は、イタリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランドの枢軸5か国とは従来通りの講和交渉をすすめ、1947年に5.パリ講和条約が結ばれた。


西欧諸国での左派・革新政党の躍進

 西欧諸国では戦後のきびしい経済状況のもとで、社会民主主義などを唱える革新政党が議会で躍進するとともに、共産党の勢力が拡大した。

 英国では1945年7月に労働党が圧勝し、保守党の6.チャーチルにかわり労働党の7.アトリーが首相となると、「ゆりかごから墓場まで」といわれるように8.社会福祉制度の充実をはかり、石油や鉄道など9.重要産業国有化をはすすめた。

 1937年に親憲法を制定して英国から離れ、二次大戦中も中立を保ったアイルランド(エール)は、1949年、ブリテン連邦から完全に離脱し、アトリー内閣はこれを追認した(10.エールの英連邦離脱)。

*アトリー内閣はパレスチナ委任統治権放棄、インドの分離独立承認など、植民地を手放す政策を採ったが、拙速な政策推進は後世に多くの問題を残した(後述)。

 フランスでは、1945年総選挙で11.フランス共産党が第一党となるなど左派が躍進したが、1946年10月に新憲法が成立して12.第四共和政(1946~58)が発足し、戦後復興に取り組んだ。英国の労働党政権動揺、社会保障を重視したが、植民地の独立という課題に直面しインドシナ戦争(1946~54)、アルジェリア独立戦争(1954~62)などによる財政支出が増大化した(後述)。

 イタリアは1946年国民投票で王政が廃止されて共和政となった(13.イタリア王政廃止)。1943年結成されたカトリック政党14.キリスト教民主党が連立政権を樹立したが、戦時中からレジスタンスの中心となり支持を広げた15.イタリア共産党の躍進に直面した。

共産圏の出現と共産主義のひろがり

 独ソ戦を経て連合国の一員となり、米英に協調的だったソ連のスターリン政権だったが、戦後共産圏の拡大をはかり、米英との対立が再燃した。

 1939年、ドイツとソ連によって分割(第四次ポーランド分割といわれる)されたポーランドは、大戦中ソ連によって解放され、戦後独立を回復したものの領域を西へ移動させられた。東部国境はソヴィエト=ポーランド戦争(1919-21)で定めたリガ線ではなく、第一次世界大戦後に設定され、独ソ不可侵条約でも基準となったカーゾン線に、西部国境はポツダム会談において設定された16.オーデル=ナイセ線とされた。

 ソ連は大戦中、ポーランドの他にルーマニア、ブルガリア、ハンガリーなどをファシズムから解放したが、戦後、これらの国では反ファシズム民族統一戦線(人民戦線)を継承した17.人民民主主義とよばれる政治体制が敷かれたが、ソ連の支援を受けた共産党(あるいは共産系の政党)が有力となり、まもなく一党独裁体制へ移行し、ソ連の衛星国となった。

 戦後、各国で共産党の活動が活発化し、議席を増やした。特にイタリア・フランス・チェコスロヴァキア・ギリシア・トルコで共産党が議席を増やし、党勢を拡大した。



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