先生の文章だと分かりますと言われた

院生の指導をしていて、何かのときにresearch map(研究者の情報を公開するサイト)を見るようにと言ったら、なぜかこのサイトを発見したらしく、「見つけました」と言ってきた。

「先生の文章っぽいと思いました」だそうな。

どのあたりが? と聞くと、「一つの文をちゃんと切って終わってる」ところなのだそうな。

そんなにきっちりした文を書いているという意識もないのだが……

この学生には今日は一日中、文章の書き方を指南した。
「指南」というとエラそうではあるけれど、研究計画書の書き方をレクチャーしたのである。

研究計画書は、論文とはスタイルの異なる文章で、同時に求められている内容も異なっている。論文は、自分が調べて発見した事実にのみ基づいて、その事実の指摘と、その事実が生じている背景について書いていく。研究計画書はというと、「こういうことを研究したら、きっとこんなことが分かっちゃうかも。そして、それが分かったら、こんな良いことが起こっちゃうかも」みたいなことを書く。いわば「絵に描いた餅」である。

論文を書き始めたばかりの学生にとっては、これが難しい。事実に基づいて客観的にを繰り返し言われてきたのに、突然、「きっとこうなるはず。だって、今のところそうなんだもん。もっと調べたい。だからお金ちょうだい/院に入学させて」みたいに書けと言われる。そら大変だ。

先月、東京のAG大学からO先生を呼んで講演会をしてもらった。その時にもO先生から堤の文章についてコメントされて、「堤さんの論文を読んだ100人のうち95人くらいが、『堤さんは怖い人だと思う』と思います」という。これは実は別の人にも言われたことがあって、R大学のOさんの家に学者が集まったときに、僕よりはるかに有名で優秀なK氏から、「本読んできたよ。怖い人だと思っちゃった」みたいなことを言われたことがある。

なんでや。

O先生に聞いても「う~ん」みたいな返事で、「文章と本物とのギャップがいいんですよ♥」みたいな感じで逃げられた。

文章を読んで、「堤さんっぽい」とか、「いかにも堤さん(いかつつ)」と言われるのは、きっと悪いことではないと思う。上述の学生には、「読んでいたら、先生の声が聞こえてくるみたい」とまで言われた。それはもう素直に喜んでいいのではないかしら。

いまでもそうだと信じているけれど、たとえ学術論文であっても、その人の色というものが出る。「色気」と言ってもいい。色気のない文章というのは、読んでいてつまらないと思う。

院生に限らず、学部生、後輩その他に論文の添削、指導をするときには、無意識にでもそのようなことを中心にコメントしている気がする。シャープに流れるように、しかも具体的に、わかりやすく。説得してほしい、語りかけてほしいのである。

ところで、この文章には色気があるのか?

聞かないで……


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