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情報を共有したがる先生と危険

情報を共有するということは、とてもとてもとても慎重に行われるべきである。国が国民の情報を管理して共有するとか、基本的にありえへんと思う。

同じくらい、学校教育の場で、生徒や学生の情報を共有するというのは、ありえへんことである。なのに、それが「情報共有は必要な業務の一環」とか、「ほーれんそー(報告連絡相談)」の名のもとに正当化されて、多く日常化しているのは恐怖である。

ここにある学生がいる。この人は、ある科目のある先生とソリが合わない。先生もこの学生を煙たい存在として認識している。この先生が、「情報共有」と称して、この学生の一挙手一投足を逐一他教科の先生に報告する。他の先生は別にこの子のことをなんとも思っていなかったが、情報共有されたことが原因で、この子を見る目が変わる。しかもこの変化は、情報共有された全員に起こりうる。

この学生は、このことによって全教員から嫌われて、行き場を失う。

情報共有はこのような側面を持っている。なのに先生たちは「情報共有」と称して、毎週会議を開いて、今週はこの子がどのような「問題行動」をとったかを披瀝し合う。そしてそれが、「きめ細やかな」指導であると言う。

「チームティーチング」という手法でも同じことが起こる。日本語教育などの語学教育ではよく用いられるもので、月曜日は僕が、火曜日は違う先生が、水曜日は他の先生が、それぞれ、前の先生の授業の続きをする(そうではない場合もある)ことで、1つの授業科目を担当する。

この場合、必然的に情報共有することになる。月曜日に僕がどこまで進んだかを知らなければ火曜日の先生は授業ができなくなってしまう。このときにも、「要注意」学生の情報はやり取りされる。

すべての情報共有が良くないと言っているのではない。配慮が必要な学生というのはいて、そのことは全員が知っておいたほうが良い場合もある。また、その教員一人では手に負えないという場合も、情報は知られていたほうが良いかもしれない。

もし僕が、学生であったとして、A先生の授業でやったことを他の先生が知っていたらとても気持ち悪い。それはA先生と僕との関係「のみ」において起こったことであり感情であって、極めてプライベートな事柄である。

たまに「情報共有」が回ってくることがある。そこには、「悪口」に近いような、感情的な言葉が並んでいることがある。それを目にする教員が複数いて、次の日から、当該の学生は、自分を救ってくれる人を失うという憂き目に遭うことになるかもしれない。

そういうことにならないように、そのような情報が来たときには、無視するか、ひどいと判断したら、その旨を情報の共有者に伝えることにしている。こんなの、下手したらハラスメントでは済まない。


例えば、誰がコロナに罹患したかという情報は、めちゃくちゃ極めて個人的な情報である。濃厚接触者になる可能性があるならまだしも、そうでないなら共有するべきではない情報であると思う。

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