おやすみ、コットンキャンディー

「僕たちきっと、幸せにはなれないよ」

 その声は震えていた。ぴんと張り詰めた糸が途切れてしまった気がしていた。

 きっかけはいつからだろうか。ひょっとしたら、今日はこんなことがあったねえなんてさりげなく交わしていた日常の対話が原因なのかもしれないし、そうじゃあないのかもしれない。それか、あの夏に二人だけで背伸びして出掛けて、人影を恐れながら食べたコットンキャンディーがキーになったのかもしれないし、やっぱりそうじゃないのかもしれない。
 青い空を眺めながらシャボン玉を吹いたり、草原で眠ったり、弾くとパチパチ鳴る石を誤って割ってしまったり、橋の下でお昼寝をしたり、曇りガラスに指先で絵を描いたり、雨宿りで立ち寄ったぼろ小屋の中でうたた寝をしたり、道端に咲いた野花に挨拶をしたり、一つのベッドで二人身を寄せあって眠りに落ちたり──ああ、思えば──きっかけなど雑草のように生い茂ってしまっていた。
 随分と二人で過ごした。そばにいる時間の方が長かった。お互いそれを、誰よりも何よりも望んでいた。幸せだったから。
 掛け替えのないものだと信じていたから。

(……そもそも)

 そもそも、きっかけなどなかったのかもしれない。そんな気もしている。
 理由などこじつけで、真っ当な意味などない。なるべくしてなった。運命に踊らされてしまっただけ。もしくは、因果や宿命めいたものが二人を繋いでいたのかもしれない。

(そうなのだとしたら)

 そうなのだとしたら?
 こうなるのは、必然だったとでも言うの?

「僕たちきっと、幸せにはなれないよ」

 その声は震えていた。ぴんと張り詰めた糸が途切れてしまった気がしていた。
 いつも眠たげにお返事をしてくれていた彼女は今にも泣き出しそうで、ぶるぶると震える唇をなんとか固く結ぼうとしている。
 長いまつ毛はしばたいて綺麗だ。白鳥の羽を彷彿とさせるなあと以前から思っていた。彼女は人間でいるにはあまりにも美しすぎるとも、感じていた。
 彼女の手には聖水を振りかけた短剣が握られている。聞けば、私を殺すために作られたのだという。
 殺すために貴重な鉄を消費するなど、人の考えることはよくわからないし、わかろうとも思わない。
 目の前の少女はすっかり疲弊しきっていた。それは肉体的な意味ではなく、精神的に。何せ長年連れ添ってきた友とも呼べる人物を──否、私は人ではないのだが──殺そうとしているのだから、気に病まない方がおかしいのだ。
 恐らく娘は事実を知らされずに生きていたのだろう。でなければ、苦痛に満ちた表情でこちらを見るはずがない。

「いつか二人で花畑に行って、たくさんたくさん眠って」

 堪えきれずに溢れ出した大粒の涙は、頬を伝って落ちていく。

「コットンキャンディーを食べて、また眠って、お花や草木とお話しして」

 楽しいことや嬉しいことをたくさんして、幸せになろうねって、約束したはずなのに。なのに、きっとなれないよ。僕ら幸せには。
 そうやって言い募る彼女はまるで、協会で祈りを捧げるシスターに勝るとも劣らない。以前から悩んでいたのであろう真っ赤に泣き腫らした瞼と、深々と刻まれた黒いクマは見るに痛々しかった。
 いつ頃から、彼女が勇者で私は魔王なのだと認識したのだろう? ……認識させられたのであろう? それは誰にも──きっと──当人にしか分からないことなのだけれど。
 残酷な結末はいつだって突然やってきて、瞬きの間に幕を引くから。

「これは仕方の無いことなのさ、メイベル」

 努めて優しく囁けば、彼女は嫌々と言わんばかりに首を左右に振った。白糸のような髪の毛がふわりふわりと宙を舞う。

「だってそうだろう? 魔王は勇者に倒されるものだ。でなければ、物語は終わらない」
「……それでも嫌だよ。幸せに暮らしましたで終わるはず、ないじゃない」
「それは私達二人だけであれば、の話さ。ストーリーに含まれるのは、何も我々のみに限らない」

 悪役はいつだって正義の味方に倒されるものだ。そうして結末を迎え、世界は幸福で満たされる。世の真理であり、理に他ならない。
 彼女だって受け入れたくないだけで、とうの昔に知り得ている。優しすぎたが故の理想論。皆が皆手と手を取り合い仲良く暮らしていくなど、夢物語でしかないというのに。

(嗚呼、それでも)

 その優しさに私は惹かれたのだから、どうにも救われない。

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